一般財団法人 総合科学研究機構
国立大学法人 東京大学
公益財団法人 高輝度光科学研究センター
公立大学法人大阪 大阪公立大学
茨城県
J-PARCセンター
代表的な天然ゴムであるアラビアガムは、非常に複雑な構造を持つ多糖であり、ある種の微生物では多くの酵素を外に出してこれを分解できます。例えば、フザリウムというカビからは、ラムノシルグルクロン酸リアーゼ(FoRhamI)という酵素が得られ、この酵素はアラビアガムの末端を切断して分解できます。高輝度光科学研究センター(JASRI)の矢野直峰研究員と東京大学大学院農学生命科学研究科の伏信進矢教授らは、総合科学研究機構(CROSS)の日下勝弘副主任研究員、大阪公立大学の近藤辰哉氏(当時)、阪本龍司教授と共同研究を行い、大強度陽子加速器施設(J-PARC)の物質・生命科学実験施設(MLF)(茨城県東海村)内の茨城県生命物質構造解析装置(iBIX)を使用して、FoRhamIの中性子結晶構造解析に成功しました。その結果、FoRhamIにはアラビアガムの中の酸性糖の部分が持つマイナスの電荷を中和する部位と糖と糖がつながる結合に水素原子(プロトン)を受け渡しするアミノ酸が存在し、これらが重要な役割を果たしていることが明らかになりました。アラビアガムは、食品、飲料、化粧品、医薬品として広く利用されており、その分解酵素のメカニズムを研究することにより、天然ゴムの物性の改変などへの利用が期待されます。
✣ カビから得られたラムノシルグルクロン酸リアーゼは、複雑な化学構造を持つアラビアガムの末端を切断する酵素で、この酵素の微細な立体構造を茨城県生命物質構造解析装置(iBIX)で解析して、水素原子の位置まで決定することに成功しました。
✣ この酵素が触媒する化学反応には、アラビアガムに含まれる酸性糖の電荷を中和しつつ水素原子をやりとりするアミノ酸残基が重要な役割を果たすことが分かりました。
アラビアガムは代表的な天然ゴムであり、多くの種類の糖が結合した非常に複雑な構造を持つ多糖です。一方で、糸状菌(カビ)の一種であるFusarium oxysporum 12S株は多数の酵素を菌体外に分泌してアラビアガムを高度に分解して栄養源にできる能力を持ちます。大阪公立大学の阪本龍司教授と近藤辰哉大学院生(当時)らは、2021年にそれまで知られていなかった新しい種類の酵素として、12S株からラムノシルグルクロン酸リアーゼ(FoRhamI)を発見しました。FoRhamIはアラビアガムの末端にあるラムノース(Rha)とグルクロン酸(GlcA)という2つの糖がつながった結合を脱離反応(※1)により切断する酵素です(図1)。東京大学大学院農学生命科学研究科の伏信進矢教授と荒川孝俊助教(当時)は、阪本龍司教授らのグループと共同研究を行い、X線結晶構造解析(※2)によりFoRhamIの立体構造をすでに明らかにしています。しかし、X線の結晶構造では水素原子が観測できなかったため、この酵素の反応に最も重要な水素原子のやりとりがどのように行われるのか、また、なぜこのような脱離反応が進みやすくなっているのかという根本的なところで不明な点がありました。
図1 アラビアガムの多糖構造
糖と糖をつなぐ結合は、α1,4-結合(α4)、α1,3-結合(α3)、β1,6-結合(β6)、β1,3-結合(β3)、などがある。FoRhamIは赤い矢印で示したRha-α1,4-GlcAの結合を切断する。
今回、これらの研究グループは、JASRIの矢野直峰研究員と共同研究を行い、中性子結晶構造解析(※3)の手法を用いてFoRhamIの触媒反応についてさらに詳しく調べました。中性子はX線と異なり水素原子により強く散乱されるので、水素原子を可視化するのに有用です。同研究グループはFoRhamIの巨大な単結晶を作成して(図2左)、CROSSの日下勝弘副主任研究員の協力のもとで大強度陽子加速器施設(J-PARC)(※4)内の茨城県生命物質構造解析装置(iBIX)(図2右, ※5)を使用して中性子回折データを測定し、解析しました。その結果、FoRhamIの水素原子および重水素原子(※6)を含む微細な立体構造を1.80 Åの分解能(※7)で決定することに成功しました。
図2 中性子回折実験に使用した結晶と装置
左:FoRhamIの巨大結晶。重水溶液中で成長させた後に石英の筒に封入して実験に用いた。
右:J-PARC MLFの茨城県生命物質構造解析装置(iBIX)
この酵素の脱離反応による切断には、Rha-GlcAのうち、酸性糖であるGlcAのカルボン酸の付け根にある水素原子(プロトン)の引き抜きが重要なステップであり、カルボン酸がマイナスに強く帯電することが必要であると考えられています(図3)。今回解析した中性子結晶構造には、GlcAのカルボン酸にあたる位置に、よく似た化合物である酢酸イオンが結合していました(図4左)。酢酸イオンの周囲にあるFoRhamIのアミノ酸は多数の水素原子が結合してプラスに帯電しており、マイナスのイオンを安定化していることが明らかになりました。さらに、FoRhamIのアミノ酸のうち85番目のヒスチジン(His85)がRha-GlcAをつなぐ結合に水素原子(プロトン)を受け渡しすることが、Rhaの特定の部位と水素結合(※8)していること(図4右)などから判明しました。以上の結果により、FoRhamIがアラビアガムの特定の場所を絶妙な結合の仕方と化学反応により切断して分解するメカニズムを解明することに成功しました。
図3 FoRhamIの反応機構
GlcAのカルボン酸の周囲にTyr150, Arg166, His105が存在し、いずれも水素原子を保持することによりマイナスの電荷を安定化する環境を作り上げている。His85は水素原子を受け取った後に糖をつなぐ結合に渡すことでこの脱離反応を触媒している。反応後のGlcAは二重結合を持つΔGlcAになる。
図4 FoRhamIの中性子構造
左:酢酸の周囲の様子。右:ラムノースとHis85の水素結合の様子。中性子散乱密度を青いかごで表した。各原子については、重水素はシアン(水色)、(軽)水素は白、炭素は黄、窒素は青、酸素は赤で表している。
アラビアガムは乳化剤や安定剤として食品や飲料、化粧品に用いられるだけでなく、錠剤のコーティング剤として医薬品などの産業分野でも広く利用されています。FoRhamIはアラビアガムの多糖の末端にあるRhaを外して酸性糖であるGlcAを露出させるため、その乳化安定能を劇的に変化させることが可能です。また、アラビアガムの多糖の特定の部分を切断する酵素はその複雑な構造を調べて生理機能を解析したり、新規オリゴ糖を生産したりするなどの利用が期待できます。本研究成果は、微生物のアラビアガム分解酵素がどのように作用するのかについて重要な基礎知識を提供するものです。
本研究は、茨城県の先導研究の一環としてビームタイム割り当てをはじめとする様々なサポートを受けて進められたものです。
雑誌名 | The Journal of Biological Chemistry |
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論文タイトル | Charge neutralization and β-elimination cleavage mechanism of family 42 L-rhamnose-α-1,4-D-glucuronate lyase revealed using neutron crystallography |
著者 | Naomine Yano#*, Tatsuya Kondo, Katsuhiro Kusaka, Takatoshi Arakawa, Tatsuji Sakamoto, and Shinya Fushinobu*(#筆頭著者、*責任著者) |
DOI番号 | 10.1016/j.jbc.2024.105774 |
※1 脱離反応
多糖の分解酵素の多くは水分子を使って結合を切断する加水分解酵素だが、酸性多糖の酵素分解には、水分子を用いずに脱離反応により酸性糖のとなりの結合を切断して二重結合を持つ糖を生成する脱離酵素(リアーゼ)が関与することが多い。
※2 X線結晶構造解析
酵素を含むタンパク質の立体構造を明らかにするための最も一般的な方法の一つ。目的物質の単結晶にX線を照射し、回折データを測定することにより、微細な三次元構造を知ることができる。
※3 中性子結晶構造解析
目的物質の単結晶に中性子ビームを照射して回折データを測定することにより結晶内の分子の立体構造を調べる手法。X線結晶構造解析は電子との相互作用を検出するものであり、電子を1つしか持たない水素原子の位置を決定することは極めて難しいが、中性子結晶構造解析は原子核との相互作用を検出するため、水素原子(あるいはプロトン)の詳細な観察が可能であり、これが特に生命科学分野で中性子結晶構造解析を行う最大の目的である。中性子ビームはX線に比べると強度が小さく生体物質との相互作用も弱いために、巨大な体積を持つ単結晶を用意して大型施設で発生する強力なビームを照射し、効率よくデータを測定して解析する必要があるため、今回は茨城県東海村にある大強度陽子加速器施設(J-PARC)の物質・生命科学実験施設(MLF)に設置された単結晶専用の茨城県生命物質構造解析装置(iBIX)を使用した。
※4 大強度陽子加速器施設(J-PARC)
日本原子力研究開発機構(JAEA)と高エネルギー加速器研究機構(KEK)が共同で茨城県東海村に建設し運用している一大複合研究施設の総称。J-PARC内の物質・生命科学実験施設(MLF)では、加速した大強度の陽子ビームを水銀標的に衝突させることで発生する大強度パルス中性子を用いて、物質科学、生命科学、素粒子物理学等の最先端の学術及び産業利用研究が行われている。
※5 茨城県生命物質構造解析装置(iBIX)
茨城県がJ-PARC MLFに設置した2本の中性子ビームラインのうちの一つであり、J-PARC MLFの強力なパルス中性子源に対応して、最大限の成果が得られるように高感度の検出器を34台配置した世界最高峰の生体高分子用パルス中性子単結晶中性子回折装置である。回折データの積分には独自に開発されたソフトウェアSTARGazerを用いる。
※6 重水素原子
通常の水素原子(軽水素 1H)は中性子に強い非干渉性散乱を起こすためにバックグラウンドが大きくなり、回折点の測定を邪魔する。そこでタンパク質の中性子結晶構造解析では結晶を浸す溶液に重水(D2O)を用いることにより試料の水素原子を非干渉性散乱の小さい重水素原子(D)に置換する。一般的な方法では一部の水素原子が重水素原子に置換されずに残るため、その両方が観測される。
※7 分解能
結晶構造解析ではより広角の回折点を測定することにより高い分解能(解像度)で三次元構造を決定できる。今回は単一の結晶から1.8 Å分解能の中性子回折データと1.25 ÅのX線回折データを測定して、両者を組み合わせて同時に構造を精密化する「ジョイントX線/中性子結晶構造解析」を行った。X線回折測定には茨城県つくば市にある高エネルギー加速器研究機構(KEK) 物質構造科学研究所(IMSS)の放射光実験施設フォトンファクトリー(PF)のビームラインBL-5Aを使用した。
※8 水素結合
2つの原子間に水素原子が入ってできる結合。
国立研究開発法人日本原子力研究開発機構
J-PARCセンター
株式会社 豊田中央研究所
一般財団法人 総合科学研究機構
✣ 市販の燃料電池自動車は、氷点下で始動する際、発電に伴い発生する熱を利用して凍結による発電性能の低下を防いでいますが、より効率的な始動方法の開発には、氷点下環境下で発電中の燃料電池内部を直接観察し、水の凍結挙動を把握する必要があります。
✣ 中性子ビームが水と氷を区別できる特徴を利用して、大面積パルス中性子ビームと大型環境模擬装置を組み合わせることで、氷点下における車載用大型燃料電池内部の水と氷を識別して可視化する技術を開発しました。
✣ その結果、発電中の車載燃料電池内部で水が凍結し、発電性能が低下する過程を明らかにすることができました。
✣ この成果により、氷点下における燃料電池の始動方法の最適化、材料・流路のコンセプトの立案とその検証など、燃料電池の研究開発における様々な展開が期待されます。
氷点下でより効率的に燃料電池を始動するには、氷点下環境下での燃料電池内部の凍結挙動を観察する必要があります。そのためには「実用サイズの燃料電池を広い視野で観察する技術」と「水と氷を区別する技術」の2つの新技術の開発が必要でした。
今回、広い視野で観察するための大型環境模擬装置と、水と氷を高精度で識別する技術を新たに開発し、測定用の大強度中性子ビームの条件を最適化することで、氷点下における大型燃料電池内部で水と氷を識別することが可能となりました。
なお本研究は、国立研究開発法人日本原子力研究開発機構(理事長 小口正範、以下「JAEA」という。)J-PARCセンターの篠原武尚 研究主幹、株式会社 豊田中央研究所 (代表取締役所長兼CRO 中西広吉、以下「豊田中研」という。)の樋口雄紀 研究員、一般財団法人総合科学研究機構 (理事長 横溝英明、以下「CROSS」という。) 中性子科学センターの林田洋寿 副主任研究員らの研究グループによるもので、大強度陽子加速器施設 (J-PARC) (※1) 物質・生命科学実験施設 (MLF) 中性子イメージング装置「RADEN」 (※2.) で行われました。
今後、車載用燃料電池の更なる性能向上に貢献する技術への発展が期待されます。
本研究成果は、Springer Natureの論文誌「Communications Engineering」に2024年2月19日に掲載されました。
再生可能エネルギーから製造できる水素の有効利用は、温室効果ガス排出量を低減し、カーボンニュートラルを実現するための鍵として期待されています。水素と酸素(空気)から電気を生成する燃料電池は、副生成物として水しか排出しないため、自動車用・定置用の電源として活用されていますが、さらに2050年のカーボンニュートラル実現に向けて、大型トラック、船舶、鉄道、スマートシティーなど幅広い分野での活用を目指した開発が進んでいます。
燃料電池を氷点下で始動する際に、生成する水が凍結することで発電性能が低下する恐れがあります。現在市販されている燃料電池自動車では、氷点下で始動する際には自動的に発電に伴い発生する熱を利用するなどの運転条件の制御をすることで凍結が回避されているため、発電性能が低下する心配はありません。しかし、さらに効率の良い制御方法を開発するためには、燃料電池内での水の凍結挙動を観察し、水の滞留・凍結・融解・排出機構を理解する必要があります。燃料電池は重厚な金属容器で覆われているために内部の水と氷を観察することが技術的に難しく、開発の現場ではコンピュータを用いたシミュレーションが活用されてきましたが、実験によって実際の様子を直接的に観察することが強く求められていました。
中性子は、水および氷との相互作用の大きさがそのエネルギーに拠って異なるため、エネルギーを選択した中性子を利用することで水と氷を識別して観察することができます。しかしながら、これまでの研究では数センチメートル角程度の狭い視野での観察しかできませんでした。
自動車に搭載されている車載用燃料電池は長さ数十㎝、厚さ数µm~数百µmのシート状の電極材料と電解質膜を積層して作られます。そのため、燃料電池内部の水と氷の挙動を理解するためには、「自動車に搭載されている実用サイズの燃料電池全体を可視化するための広視野観察」と、「水と氷の識別」という二つの観察技術を同時に行うことが必要となります。そこで、J-PARCのエネルギー分析型中性子イメージング装置「RADEN」[1]においてJAEA、CROSS、豊田中研との共同で水と氷の広視野観察の技術開発を進めてまいりました。
発電中の燃料電池内部において生成した水が氷点下環境において凍結していく過程をその場で観察するためには、車載燃料電池の観察に適した視野と水と氷を識別して観察する技術の両方を同時に実現することが必要です。私たちは、これまでに発電中の車載燃料電池内部に生成する水を直接観察するための「広視野での水の観察技術」 (※3) を開発しましたが、この技術を発展させ、J-PARCの大強度パルス中性子ビームの飛行時間分析による中性子エネルギー選択技術を組み合わせた「広視野での水/氷識別観察技術」の開発を進めました [2]。この新しい技術により、30cm角の広い視野において、任意の中性子エネルギーを選択した中性子による観察像を取得することができるようになり、水と氷の識別観察に利用することができるようになりました。
本研究では、さらに、水と氷の識別の精度および分解能を向上させるための技術開発として、(1) 撮像素子の画素レベルでの誤差要因解析による水氷識別技術の高精度化、(2) 大強度パルス中性子を用いた観察条件の最適化を行うとともに、(3) 車載燃料電池を氷点下環境で動作させることができる大型環境模擬装置(図1)を開発しました。この環境装置では、燃料電池セルの締結に使用される金属製パッドに冷媒を循環させることで、燃料電池の温度を室温から-20℃の間で変化させることができ、また装置内部の雰囲気を乾燥ガスで満たすことで電池の結露を抑制し、電池内部に生成した水のみの観察を可能とします。
これらの新しい技術と実験装置を組み合わせ、発電中の燃料電池を氷点下まで冷却する過程における水の凍結挙動を観察しました。実験では、まず始めに燃料電池の温度を10℃に保って発電を行った後、発電を継続させながら3分間で1度のペースで燃料電池を冷却しました。この発電から冷却までの経過をエネルギーを選択した中性子で観察した結果(図2)、電池の温度の低下に伴って、空気の出口側から段階的に凍結が始まり、全体が凍結したところで発電が停止する様子が観察されました。このような、発電中の車載用燃料電池内部において水が凍結していく過程の一連の挙動を可視化した結果は、世界で初めての成果です。
本研究では、車載用燃料電池内部が、空気の流れの下流から上流に向かって段階的に凍結していく様子が確認されましたが、凍結が進む間も発電が継続して水が生成され続けるため、上流側ほど水の滞留量が多くなることも明らかになりました。観察された凍結挙動は、電池内の発電分布の変化・熱媒供給方向・水の滞留挙動が複雑に影響しあった結果であることが詳細な解析によりわかり、本研究を通じて氷点下環境で燃料電池内部で起こりうる発電停止までのメカニズムを明らかにすることができました。
本研究で開発した車載用燃料電池の水/氷識別・観察技術は、燃料電池の性能に影響を及ぼす水の凍結挙動の解析に応用でき、将来の燃料電池の高性能化に不可欠な役割を果たすものです。燃料電池内部での水の凍結・融解現象を解明することは、電池の最適な制御方法を確立するだけでなく、現象に対する正しい理解に基づいた材料の選定や流路構造の設計とその検証など、燃料電池の研究開発を加速する様々な展開が期待されます。
図1.
(a) : 車載用燃料電池の模式図。図では空気の流路が示されており、図の左から右へ向かって空気が流れます。 (水素ガスの流路は空気の流路の裏側にあるため、図には記載されていません。)
(b) : 発電装置の外観写真。図 (a) に示した車載用燃料電池は、二枚の金属製パッドで締結されています。金属パッドは、ガス供給ポート、水排出ポート、温度制御用の流体の供給・排出ポートを備えます。装置中央の十字型の治具は締結圧を確保するための圧縮治具です。
(c) : 大型環境模擬装置の外観写真。内部に発電装置が格納されています。黄色矢印の方向に沿ってチャンバに入射した中性子は、発電治具を透過し、後方に配置された検出器で検出されます。中性子の透過強度のエネルギー依存性を解析することで、水と氷の識別が可能となります。
図2. 中性子で観察された水/氷の分布像。 (ここでは、液体の水を赤色、凍結した氷の状態を青色で表現し、その色の濃さが、電池内に滞在している水/氷の量を表現しています。)
(a) : 温度10℃で発電したときの水の分布。
(b) : 発電しながら冷却温度-1℃ (電池全体の平均温度1℃) まで冷やしたときの水と氷の分布。図の右側 (空気の出口側) から凍結が開始したことがわかります。
(c) : 発電しながら冷却温度-3℃ (電池全体の平均温度-1℃) まで冷やしたときの水と氷の分布。凍結範囲が図の左側 (空気の入口側) に向かって広がっていく様子がわかります。
(d) : 冷却温度-5℃ (電池全体の平均温度-5℃) まで冷やしたときの水と氷の分布。-5℃に到達する前に発電は停止しました。
雑誌名 | Communications Engineering (Springer Nature) |
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タイトル | Experimental visualization of water/ice phase distribution at cold start for practical-sized polymer electrolyte fuel cells |
著者名 | Yuki Higuchi*1, Wataru Yoshimune*1, Satoru Kato*1, Shogo Hibi*1, Daigo Setoyama*1, Kazuhisa Isegawa*1,3, Yoshihiro Matsumoto*2, Hirotoshi Hayashida*2, Hiroshi Nozaki*1, Masashi Harada*1, Norihiro Fukaya*1, Takahisa Suzuki*1, Takenao Shinohara*3 & Yasutaka Nagai*1 |
所属 | *1: 豊田中央研究所、*2:総合科学研究機構、*3: 日本原子力研究開発機構 |
DOI | https://doi.org/10.1038/s44172-024-00176-6 |
J-PARCセンター | 広視野水氷識別技術開発、実験、解析、考察 |
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豊田中央研究所 | 車載燃料電池用大型環境模擬装置開発、実験、解析、考察 |
総合科学研究機構 | 実験支援、解析支援 |
[1] Shinohara,T. et al., "The energy-rsolved neutron imaging system, RADEN", Rev. Sci. Instrum., 91, 1062 (2020).
[2] Isegawa, K. et al., "Fast phase differentiation between liquid-water and ice by pulsed neutron imaging with gated image intensifier", Nucl. Instrum. Methods Phys. Res. A 1040, 167260 (2022).
※1.大強度陽子加速器施設(J-PARC)
J-PARCは日本原子力研究開発機構 (JAEA) と高エネルギー加速器研究機構 (KEK) が茨城県東海村で共同運営している大型研究施設で、物質科学を含む幅広い分野に関連する世界最先端の研究が日々行われています。物質・生命科学実験施設 (MLF) では、大強度の陽子ビームを用いて世界最高クラスのパルス状中性子ビーム (パルス中性子ビーム) およびミュオンビームを利用した物質科学、生命科学の学術研究ならびに産業応用研究が進められています。
※2.中性子イメージング装置「RADEN」
世界最初のパルス中性子を用いたエネルギー分析型中性子イメージング実験装置です。一般的な中性子ラジオグラフィ・トモグラフィ実験では、観察対象の内部の2次元または3次元的な形状情報を非破壊で調べることができますが、RADENではパルス中性子の特徴を活用することにより、形状情報に加えて結晶組織情報や原子核種、温度、磁場の空間的な分布を取得できるだけでなく、それらの定量的な評価が可能となります。
※3.J-PARCに構築した燃料電池内部における水の広視野観察技術
エネルギー分析型中性子イメージング装置「RADEN」において、実際の車載用の燃料電池を発電させながら内部の水を広視野観察するため、ガス供給・排気設備・試料 (燃料電池) 環境調節設備・発電設備を統合したシステムを構築するとともに、オペランド観察のために時間分解能を向上させる技術開発を行ってきました。
大学共同利用機関法人 高エネルギー加速器研究機構
国立大学法人 東北大学
国立大学法人 茨城大学
J-PARCセンター
- Question - ✣ 半導体は不純物に大きく影響され、リンやホウ素を微量添加することで機能を制御できます。水素も不純物の一つで、次世代メモリー材料として期待される二酸化バナジウム(VO2)では、その機能のカギである電気抵抗の変化は内部の水素の挙動が関係することがわかっていますが、具体的な動きや影響はよくわかっていませんでした。
- Findings - ✣ 素粒子「ミュオン」(正のミュオン)は物質中で水素原子のように振る舞い、擬水素(ミュオジェン)とも呼ばれます。これを用いることで、VO2中の水素の拡散運動を解明しました。水素はVO2中で2種類の拡散経路を持ち、そのうちの一つは半導体素子に適した高い拡散係数を示すことを発見しました。
- Meaning - ✣ 本研究から得られた情報を活用することで、高密度の抵抗変化型記憶素子の開発につながる可能性があります。また、VO2は水素によって動作するという従来の素子とは異なる制御方式であるため、これまでにない用途への活用も期待されます。
図1:正の電荷を持つミュオンは物質中の電子を捕獲して水素原子(左)とよく似た原子をつくり、「ミュオジェン」と呼ばれる(右)。
図2:μSR実験より得られた擬水素ミュオン (Mu) のホッピング率ν(赤三角)と核磁気分布幅Δ(青丸)の温度依存性。青い点線は摂氏67度で、VO2が結晶構造相転移を起こす。
物質中で水素原子のように振舞う素粒子「ミュオン」を用いることで、二酸化バナジウム(VO2)における水素の拡散機構を原子レベルで明らかにしました。本研究の成果は、次世代水素駆動型半導体デバイス開発のきっかけになることが期待されます。
半導体の電気特性は材料中に存在する不純物の量に左右されることが知られています。例えば純度の高いシリコンはほとんど電気を通しませんが、微量のリンやホウ素を添加すると電気抵抗が下がり、半導体として機能します。同様に半導体中に存在する不純物としての水素の量によって電気抵抗を変化させることができ、その性質をうまく使えば抵抗変化型のデバイスをつくれます。
しかし、その水素の振る舞いをナノスケールで調べる方法は極めて限られています。我々は次世代半導体デバイス材料として注目を集める二酸化バナジウム(VO2)に対して、物質中で水素のように振舞う素粒子「ミュオン」を用いることで、ナノスケール領域における水素の挙動(ダイナミクス)を明らかにしました。大強度陽子加速器施設(J-PARC ※1)物質・生命科学実験施設(MLF)のミュオン科学実験施設(MUSE) Sラインにおいて行われたミュオンスピン回転/緩和/共鳴(μSR ※2)実験により、水素はVO2中で2種類の拡散経路を持つこと、室温で10-10cm2/sもの高い拡散係数を示すポテンシャルを秘めていることを発見しました。これは半導体中の水素の量をわずかな電圧の変化で制御できることを意味し、VO2を用いた次世代水素駆動型半導体電子デバイスの開発に資するものです。本論文は米国科学誌「Physical Review Materials」の注目論文(Editors' Suggestion)に選ばれました。
※1.大強度陽子加速器施設(J-PARC)
高エネルギー加速器研究機構(KEK)と日本原子力研究開発機構が茨城県東海村で共同運営している大型研究施設で、素粒子物理学、原子核物理学、物性物理学、化学、材料科学、生物学などの学術的な研究から産業分野への応用研究まで、広範囲の分野での世界最先端の研究が行われています。J-PARC内の物質・生命科学実験施設(MLF)では、世界最高強度のミュオン及び中性子ビームを用いた研究が行われており、世界中から研究者が集まっています。
※2.ミュオンスピン回転/緩和/共鳴(μSR)
ミュオンはスピンという性質を持っており、スピンが磁場を感じるとスピンの向きが回転します。正の電荷を持つミュオンは約2.2マイクロ秒の寿命を持って崩壊し、スピンの方向に多く陽電子を放出するため、前後左右に飛んでいく陽電子数の違い(非対称度)を測定することでスピンの運動がわかり、物質内部の局所的な磁場構造を調べることができます。
東北大学(元KEK)の岡部博孝 特任助教
物質を探る素粒子の目、ミュオンは原子の視点から物質の内部を眺めることができるユニークなツールです。また、日本は世界でも有数のミュオン大国(もっとも多くの実験施設がある)でもあります。ミュオンに興味を持たれた方は、ぜひ一度使ってみてください。
二酸化バナジウム(VO2)は室温近くで電気抵抗が大きく変化するという性質があるため、抵抗変化型メモリー(ReRAM※3)と呼ばれる次世代不揮発性記憶デバイス材料としての研究開発が進められています。近年、VO2の抵抗変化にはデバイス中に含まれる水素が深く関わっていることが判明しましたが、水素がVO2の中をどのように運動し、どのような影響を与えているのかは不明であるため、デバイス開発の足枷になっていました。
※3.抵抗変化型メモリー
ReRAM(Resistive Random Access Memory)とも呼ばれる、電圧の印加による電気抵抗の変化を利用してデータを記憶する不揮発性メモリー(電源が切れてもデータを保持するメモリー)。
水素はこの宇宙で最も豊富に存在する元素ですが、一番小さい元素(周期表で原子番号1)でもあるため、観察することが難しいという側面があります。特に半導体デバイスを構成する厚さ10ミクロン程度の薄膜の中に存在する、わずかな量の水素の性質を調べることは非常に困難です。我々は物質中の水素そのものを観察する代わりに、大型加速器施設で生み出された「擬水素」ミュオン(※4)を外部から測定対象に入射することで、デバイスを組んで電圧を印加し、実際に水素を注入することなく、直接ナノスケール領域の水素のダイナミクスを調べることができるのではないかと考えました。
※4.擬水素としてのミュオン
ミュオンは陽子の9分の1、電子の206倍の質量を持ちます。ミュオンには正の電荷を持つものと負の電荷を持つものがありますが、前者は物質内の電子を捕獲して水素と同様の構造を持つ「原子」をつくります。これは「ミュオジェン」と呼ばれ、物質との相互作用(化学的性質)という意味では水素の軽い放射性同位体とみなすことができます。つまり擬水素として扱うことができます。
本研究で用いたμSRという方法は、一回の測定につき数百万~数千万個のミュオンからの信号によって構成された時間スペクトル(図3)から、物質中の水素に関わる情報を抽出する必要があります。この作業を行うには、測定対象の結晶構造や物理的性質も考慮した様々な解析やシミュレーションを行わなければなりません。物理的に矛盾のない解釈に辿り着くには、多大な労力を要します。またμSRは、原子レベルの超高感度測定法であるため、結晶構造の乱れや微量の磁性不純物の影響も容易に検出してしまいます。このため、測定に使われる試料の素性をはっきりさせておく必要があります。本研究では、物質・材料研究機構が所有する最先端の分析装置により、試料の結晶構造や状態、微量元素(特に水素の量)を確認しています。
図3:VO2のμSR時間スペクトル(摂氏-265℃~110℃の範囲で測定)と結晶構造(高温相)。
μSRの実験データ解析結果から、図2に示すようなミュオンのホッピング率νと核磁気分布幅Δの温度依存性が得られました。ホッピング率とはミュオンがどの程度の頻度で結晶内部の安定位置間を飛び回っているかの指標であり、核磁気分布幅とはVO2を構成する元素(主にバナジウム)の核磁気モーメントが結晶内部に生じさせる微小な磁場分布の大きさを表しています。理論計算により得られたVO2中のΔの分布を図4に示しました。VO2は摂氏約67℃で結晶構造相転移を起こし、Δの分布が多少変化しますが、内部磁場の大きさ自体はあまり変わりません。実験から得られたΔの値と第一原理計算から得られたポテンシャルエネルギーを比較することにより、ミュオンは酸素に取り囲まれたトンネル状の空洞(酸素チャンネル、図4の紫色の部分)に存在していることが判明しました。
図4:VO2中の内部磁場分布。Vはバナジウム、Oは酸素原子を表している。図中の数字は磁場の大きさ(単位はガウス)を示している。
ところが研究を進めるにつれて、この描像は室温よりずっと低い温度領域でのみ、有効であることがわかってきました。そこで我々は、VO2中に様々な大きさの格子欠陥を導入したシミュレーションと実験結果を比較することで、低温から高温までの水素のダイナミクスを説明することに成功しました。図5に示したのは、各温度領域におけるVO2中の水素の状態です。低温において水素は、酸素チャンネル内壁の酸素と結合し、ほとんど動くことができません。温度が上がると、水素は隣にある酸素へと飛び移れるようになり、酸素チャンネルに沿って拡散するようになります。ただし、この水素は格子欠陥(図中の点線で描かれた円)に遭遇すると、捕まって動けなくなります。さらに温度が上がって高温状態になると、捕まっていた水素は格子欠陥から脱出し、ふたたび酸素チャンネルに沿って拡散するようになります。これはあたかも格子欠陥から格子欠陥へと飛び移っているかのような状態です。このようにVO2中の水素は、格子間拡散(酸素間の飛び移り)と空孔媒介拡散(格子欠陥間の飛び移り)という2種類の拡散経路を持ち、温度によってその割合が変化していくことがわかりました。また、格子間拡散だけに限れば、室温付近で10-10cm2/sもの高い水素の拡散係数を示す可能性があることも判明しました。この事実は、格子欠陥の少ない良質なVO2の薄膜を使用することで、高速応答可能な水素駆動型電子デバイスが実現できる可能性を示唆しています。
図5:各温度領域におけるVO2中の水素拡散のイメージ図。温度が上がるにつれて低温(上段)で酸素に結合していた水素(水色の丸)は、格子間拡散(中段)や空孔媒介拡散(下段)を示す。
VO2の応用先の一つ抵抗変化型メモリーは、多値化が容易であることからNAND型フラッシュメモリーをはるかに超える超高密度化が期待されています。抵抗変化型メモリーは、電気を流す量とその電気の強さの関係が、過去にどう使われたかによって変わる特別な性質を持っています。この性質を使うと、電気の使い方によっていろいろな状態を記録でき、コンピューターが情報を処理する際に役立ちます。特に、このメモリーは、脳の神経細胞がつながる仕組みに似ているため、人工知能が学習するシステムに使えるかもしれません。水素駆動という従来とは異なる制御方式を持つVO2であれば、これまでにない応用への展開も期待されます。
本研究は文部科学省「元素戦略プロジェクト/研究拠点形成型 東工大元素戦略拠点 」(助成番号:JPMXP0112101001)および「データ創出・活用型マテリアル研究開発プロジェクト」(JPMXP1122683430)、JSPS科研費(20K05312、19H05819)の助成を受けたものです。μSRの実験はJ-PARC MLFの実験課題 (課題番号2019MS02)、基礎物性測定の一部は総合科学研究機構中性子科学センター(CROSS東海)ユーザー実験準備室にて行われました。
Nanoscale dynamics of hydrogen in VO2 studied by μSR
H. Okabe, M. Hiraishi, A. Koda, Y. Matsushita, T. Ohsawa, N. Ohashi, and R. Kadono
Physical Review Materials 8, 024602 (2024).
DOI: https://doi.org/10.1103/PhysRevMaterials.8.024602
国立研究開発法人日本原子力研究開発機構
J-PARCセンター
明治大学
✣ 漆は縄文時代の遺跡から分解されずに出てくるほど高い安定性を持つ、古来のスーパー塗料です。日本の伝統工芸品として馴染みのある黒漆は、漆に鉄粉を添加することで美しく深い雅やかさがある黒色を帯びています。科学的には、鉄イオンの作用により塗膜が早く乾燥することが知られていましたが、有害物質の分解を早めるような触媒機能をもつことも最近分かってきました。
✣ しかし、安定でかつ可視光を吸収する黒色を持つ黒漆の分析は困難で、黒色ができるメカニズムや内部構造は現代でも謎のままでした。黒漆の謎を解明することは、歴史資料のさらなる解析や、漆を利用した新しい機能性材料の開発に役立ちます。
✣ 物質を透過する力に優れかつ内部の極微量な成分を検出することが可能な放射光と中性子線を利用して、黒漆内部の鉄イオンや特殊なナノ構造を観ることに初めて成功しました。また、鉄イオンが漆の有機物成分であるウルシオールの構造化に作用して、ウルシオールの配列構造が美しい黒色を作り出していることを明らかにしました。
✣ 今回初めて明らかになった結果から、漆に添加する金属イオン種や量を制御することで、古来の漆技術を最先端の触媒技術などに活かせる可能性が示唆されました。さらに、今回確立した分析手法を用いて歴史的資料の非破壊分析に役立てていく予定です。
漆黒。「闇」を表現する際にも用いられるこの言葉のように、黒漆 [1] は非常に美しい黒色をしています。しかし、なぜ漆が黒色になるのか、黒漆の構造はどうなっているのか、その謎は現代でもほとんど解明されていません。
放射光 [2] や中性子、X線は、物を透過する力を持つ「光(量子ビーム)」であり、それぞれ異なる性質を持っています。これらの特殊な能力を持つ量子ビームを駆使することで、可視光では透過できない漆のナノ構造を解明することに成功しました。その結果から、長年の謎であった黒漆の黒色の起源を明らかにしました。
本研究は、国立研究開発法人日本原子力研究開発機構(理事長 小口正範)、企画調整室の南川卓也研究員、物質科学研究センターの関根由莉奈研究副主幹、松村大樹研究主幹、J-PARCセンターの廣井孝介研究副主幹、高田慎一研究副主幹、明治大学 (学長 大六野耕作) 理工学部応用化学科の神谷嘉美客員研究員、本多貴之准教授の研究グループによるものです。
漆は、耐水性・耐薬品性に優れた稀有な天然塗料です。様々な日用品や装飾品の塗装に用いられてきました。近年では、漆を利用した新たな材料開発も注目されています。生漆に刀などから削り出したごく微量の鉄を加えると、非常に美しい漆黒が作り出されることが古くから知られています。しかし漆の構造や反応はほとんど解明されておらず、何故黒色になるかは現代でも明らかにされていません。
現代では様々な物質の構造が明らかにされ、物質の構造が変われば性質が大きく変化することが知られています。物質の持つ性質を最大限に引き出すには、その物質の構造を明らかにしたうえで、構造を制御することが必須です。また漆の構造が製法によって異なるなら、歴史遺産として知られている漆の作成法も調査できます。したがって、漆の構造を調べる手法の確立は漆の歴史遺産を調べる上でも重要です。
漆は0.3%以下の非常に低濃度の鉄を添加するだけで黒色になります。従来の分析方法ではこのような低濃度の鉄イオン [3] を安定的に検出することは困難でした。そこで、大型放射光施設SPring-8 [4] や大強度陽子加速器施設J-PARC [5] といった世界最高レベルの実験施設を用いることで、漆内部の精密な測定を可能にしました。実験では黒漆中の鉄イオンの化学状態を放射光で決定しました。また、X線と中性子の特色を利用し、その透過率の差で漆の構造を観る手法を確立しました。これらの結果から、黒漆がなぜ黒くなるかの科学的メカニズムを初めて解明しました。
今後、本手法を基に今まで知られていない黒漆発祥の歴史を解明できる可能性があります。さらに、漆は石油由来素材よりも化学的に優れた特徴を持つため、次世代に向けた新たな機能性材料の開発にも本解析手法を役立てることも期待されます。
本成果は、国際学術誌「Langmuir」のオンライン公開版(3月5日(日本時間0時))に掲載されます。
漆の歴史は非常に古く、縄文時代から利用されていたことが知れています。生漆 [6] は茶色の膜になりますが、黒色など様々な色の漆膜が作られてきました。中でも「漆黒」の美しい黒色を持った黒漆は、螺鈿の白や金箔の金等の色との明暗をつける効果により、非常に美しい芸術品を作る装飾塗料として古来利用されてきました。
漆を黒く着色する手法として、漆と鉄イオンとの化学反応や、カーボンブラックや松煙の添加など、いくつかの方法が知られています。中でも、漆と鉄イオンの化学反応で作る黒漆は、光沢があり非常に美しいため、最も広く用いられています。
生漆は、主成分のウルシオール [7] (~65%、図1)と、水(~30%)から構成されています。鉄を添加すると、ウルシオールと反応すると考えられますが、何故黒色に変化するのかは現代でも謎です。黒漆に添加される鉄の量は非常に微量であり、通常の手法では可視光を通さない黒い漆の中の鉄の状態を解析することが困難です。そのうえ、硬化した漆は非常に安定であるため、分解等により詳細に構造を調べることも困難です。また、乾燥前の漆は「漆かぶれ」などの原因にもなり、取り扱いが難しいため漆の構造については現代でも謎が残ったままです。
図1:ウルシオールの構造
本研究では、図2に示すような生漆膜と0.3 %の鉄を含む黒漆膜に対して、非破壊で透過性の高い放射光、X線、中性子線をあて、それぞれの量子ビームの特徴を活用して多角的に構造を観察しました。
図2:測定に用いた生漆膜と黒漆膜
まず黒漆膜に含まれるごく微量の鉄の化学状態を明らかにするために、SPring-8に設置されているビームラインで測定を行いました。なお、測定にはX線吸収端近傍構造 (X-ray Aborption Near Edge Structure: XANES)法 [8] ) 及び広域X線吸収微細構造(Extended X-ray Absorption Fine Structure: EXAFS)法 [9] )を用いました。 X線を鉄イオンに当てて吸収の様子を測定することで、それぞれ鉄の価数及び鉄近傍の構造の測定を観察することができます。これらの方法により、漆膜中に微量に含まれる鉄イオンの状態を捉えることに成功しました。
黒漆中の鉄イオンのXANES及びEXAFS測定の結果を図3に示します。XANES法で得られたグラフ(図3左)を解析することにより、鉄イオンの価数がわかります。漆膜と0, 2, 3価の鉄と比較することにより、漆内の鉄イオンが全て3価である (Fe3+である) ことが分かりました。また、EXAFS法で得られたグラフ(図3右)を解析することにより、周辺分子との平均距離が分かります。解析の結果、Fe3+の周辺酸素原子との平均距離が1.5Å(オングストローム)5)及び2.2Åの場所に酸素原子との結合によるピークが観測され、鉄原子とウルシオールが化合物を形成していることが観測できました。
図3:黒漆膜のXANES測定、EXAFS測定結果
また生漆膜と黒漆膜のナノ構造の違いを調べるために、中性子小角散乱 (Small Angle Neutron Scattering: SANS)法 [10] ) とX線小角散乱(Small Angle X-ray Scattering: SAXS)法 [11] ) を用いました。SANS 法及びSAXS法は、中性子またはX線を試料に照射して、ここから散乱する中性子線やX線の強度から物質のナノ構造を測定する手法です。今回中性子線とX線という性質の異なる2種類の量子ビームを利用しました。中性子線は通常の実験施設では利用できないため、J-PARCに設置されているビームラインでSANS測定を行いました。X線は元素に含まれる電子によって散乱されるのに対して、中性子線は元素に含まれる原子核によって散乱されます。そのため、X線および中性子線をそれぞれ漆膜に照射し、そこから散乱されたビームの強度比を解析することで、散乱に寄与したナノ構造の元素組成を分析することが可能です。本研究ではこのような原理を用いて、生漆膜および黒漆膜中に含まれるナノ構造の構成成分を調べました。
図4:SANS 法及びSAXS法の概要図
当初、生漆膜と黒漆膜のナノ構造はほぼ同様の組成なのではないかと予想していました。しかし、興味深いことに生漆膜は中性子よりもX線を非常に強く散乱しました。生漆膜と黒漆膜から散乱された線および中性子線の強度比(ISAXS/ISANS)を計算すると、表1のように生漆は黒漆より非常に大きな値となります。この結果は、生漆膜と黒漆膜に含まれるナノ構造の組成が全く異なることを示しています。これは初めての発見です。それぞれの膜でどのような成分がナノ構造を形成しているかを理論値をもとに計算した結果、生漆膜ではウルシオールのアルキル鎖 [12] が配列していることが分かりました(図5(上))。一方で、黒漆膜では鉄イオンまたはウルシオールのベンゼン環の部位が配列していることが示唆されました(図5(下))。
図5:生漆と黒漆の構造の違い
以上のように、黒漆膜中の鉄イオンの化学状態やナノ構造の解析に成功しました。これらの結果より、黒漆が黒色をつくるメカニズムとして、以下の一つの仮説が示されました。生漆に鉄イオンが添加されると、ウルシオールのベンゼン環の部分が活性化され、そこの部分で反応が進みます。このような反応により、ベンゼン環 [13] 部位が連なっていきます。この部分が連なることで可視光が吸収されやすくなり、黒色になると考えられます。(図5(下))。
漆は実用性や装飾性に優れた塗料として古来利用されてきましたが、本研究により興味深い化学反応で形成され、さらに特殊なナノ構造を持つことが明らかになりました。性質の異なる量子ビームを利用することで、長年にわたって謎であった漆膜の構造解析が非破壊で測定可能であることが示されました。今後、本手法を歴史的な資料に適用することで、今まで明らかになっていなかった歴史の謎も解明できるかもしれません。また、漆の優れた物性がどのよう構造から発現しているのかを明らかにすることで、今後自然に優しい優れた次世代材料の開発が期待できます。
✣ 南川、関根(日本原子力研究開発機構):漆の分析及び構造を解析するための実験のデザイン
✣ 南川、関根、松村、廣井、高田(日本原子力研究開発機構)、神谷、本多(明治大学):本研究にかかるデータの収集と実験データの解析
✣ 南川、関根(日本原子力研究開発機構):黒漆の構造についての理論に基づいた説明
✣ 神谷、本多(明治大学):本研究に関わる漆取り扱い手法に関する指導、歴史的背景の解説
本研究はJSPS科研費(「21K04949」、「20K20679」)、およびJAEA原科研ACCEL研究費の助成を受けたものです。
雑誌名 | Langmuir https://pubs.acs.org/doi/10.1021/acs.langmuir.3c03412?goto=supporting-info |
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タイトル | Effects of Fe ions, UV irradiation, and heating on microscopic structures of black lacquer films |
著者名 | Takuya Nankawa1*, Yurina Sekine2*, Daiju Matsumura2, Kosuke Hiroi2,3, Shin-ichi Takata2,3, Yoshimi Kamiya4, Takayuki Honda4 |
所属 | 1 日本原子力研究開発機構 企画調整室、2 日本原子力研究開発機構 物質科学研究センター、3 日本原子力研究開発機構 J-PARCセンター、4 明治大学 |
[1] 黒漆
漆が鉄分によって黒化する性質を利用して作られた漆液、もしくは漆膜のことです。生漆の中に、古くはおはぐろ(鉄漿)や刀を研いだ鉄粉などを,現代では鉄の化合物等を混入して作っています。
[2] 放射光
放射光とは、電子を光とほぼ等しい速度まで加速し、電磁石によって進行方向を曲げた時に発生するX線。実験室レベルのX線に比べて12桁以上の強度を持つため微量成分も検出できる。
[3] 鉄イオン
鉄元素が酸化されてイオン化したもので、主に2価と3価が安定に存在します。鉄の場合3価の多くが黄色ですが、2価が混じると黒色(黒錆び:Fe3O4)が生成するなど、価数で性質が異なることが知られています。イオンの性質を知るには価数の情報を得ることが必須となります。
[4] SPring-8(大型放射光施設)
兵庫県の播磨科学公園都市にある世界最高性能の放射光を生み出す理化学研究所の施設で、SPring-8の名前はSuper Photon ring-8 GeV(ギガ電子ボルト)に由来します。SPring-8では、放射光を用いて、ナノテクノロジーやバイオテクノロジー、産業利用まで幅広い研究が行われています。
[5] J-PARC(大強度陽子加速器施設)
高エネルギー加速器研究機構(KEK)と日本原子力研究開発機構(JAEA)が茨城県東海村で共同運営している大型研究施設で、素粒子物理学・原子核物理学・物性物理学・化学・材料科学・生物学などの学術的な研究から産業分野への応用研究まで、広範囲の分野での世界最先端の研究が行われています。J-PARC内の物質・生命科学実験施設MLFでは、世界最高強度のミュオン及び中性子ビームを用いた研究が行われており、世界中から研究者が集まっています。
[6] 生漆
漆の木から出た液をろ過し、不純物を取り除いて均一にした漆液、もしくはそれを使った漆膜のことです。
[7] ウルシオール
ウルシ科の多くの植物に含まれる物質。漆の原料であり、触れると皮膚に発疹を生じ「漆かぶれ」の原因としても知られています。
[8] XANES法
入射する放射光のエネルギーを変えながら物質による吸光度を測定することで、対象の原子の化学状態を分析する手法。
[9] EXAFS法
入射する放射光のエネルギーを変えながら物質による吸光度を測定することで、対象の原子近傍の局所的な構造や化学状態を分析する手法。
[10] SANS法
中性子を物質に照射して散乱した中性子線のうち、散乱角が小さい領域のもので物質の構造を評価する手法。
[11] SAXS法
X線を物質に照射して散乱したX線のうち、散乱角が小さい領域のもので物質の構造を評価する手法。
[12] アルキル鎖
炭素と水素から成り、基本的に (CH2)nで表される鎖状の有機物質。
[13] ベンゼン環
炭素と水素から成り、C6H6で表される安定な環状の有機物質。
大阪大学
国際基督教大学
京都大学
高エネルギー加速器研究機構
日本原子力研究開発機構
J-PARCセンター
国立歴史民俗博物館
✣ 素粒子ミュオン※1の寿命測定により鋼鉄中の微量な炭素を非破壊で分析する新たな技術を開発
✣ 鋼鉄の品質管理や日本刀などの鋼鉄製文化財の分析への応用研究が期待される
✣ 物質中の炭素以外の微量な軽元素への新たな分析法開発につながる
大阪大学放射線科学基盤機構附属ラジオアイソトープ総合センターの二宮和彦准教授、国際基督教大学の久保謙哉教授、京都大学複合原子力研究所の稲垣誠特定助教、高エネルギー加速器研究機構 物質構造科学研究所の下村浩一郎教授、日本原子力研究開発機構先端基礎研究センターの髭本亘研究主幹、国立歴史民俗博物館の齋藤努教授らの研究グループは、量子ビーム※2の一つであるミュオンを用いて、鋼鉄中に含まれる微量な炭素を非破壊で定量する方法を開発しました。
図1:本研究成果の概要。ミュオンビームを鋼鉄に打ち込み、鋼鉄に含まれている微量な炭素に由来する電子を検出する(左)。電子のシグナル強度から、炭素を定量する(右)。右図の横軸はマイクロ秒(100万分の1秒)単位
鋼鉄中の炭素は、鋼鉄の性質を決める重要な元素ですが、その分析は化学処理を伴う破壊的な方法で行われています。今回、研究グループは、大強度陽子加速器施設J-PARC物質・生命科学実験施設(MLF)ミュオン科学実験施設(MUSE)※3から得られる世界最高強度のミュオンビームを利用して、鋼鉄内部の微量の炭素を、位置選択的かつ非破壊で分析することに世界で初めて成功しました。物質中に捕らえられたミュオンの寿命は、捕らえた元素によって変化します。この性質を巧みに利用することで、鋼鉄に微量に含まれる炭素の量を感度良く検出することができるようになりました。
本研究の成果は、人類にとって最も重要な物質の一つである鋼鉄の品質管理にミュオン分析という新たな選択肢を与えるとともに、文化財などの貴重資料に新たな分析法を提供するものです。例えば日本刀は、鋼鉄でできていますが、その製法は地域や時代によって異なっており、炭素の存在量を調べることは、失われた製法を再現する上で重要な情報を与えます。このように本研究の成果は、ミュオン利用の新たな可能性を拓くものとなります。
本研究成果は、英国科学誌「Scientific Reports」に、2024年1月20日(土)(英国時間)に公開されました。
鋼鉄(鉄)は、古くから使用されてきた材料であり、現在の我々の生活を支えている最も重要な物質の一つです。鋼鉄の主成分は鉄(元素記号Fe、原子番号26番)であり、そこに様々な元素を添加することで、硬さなどの特性を制御することができます。このように、ひとことで鋼鉄と言っても様々で、その組成を制御して使用目的に合致した性質を持つものを作りだし利用しています。鋼鉄の性質を制御する元素のうち、炭素(元素記号C、原子番号6番)は特に重要な役割を果たします。炭素は鋼鉄中に2%未満程度の低い濃度で含まれており、多く含まれている場合は硬いが欠けやすく、少ない場合は柔らかいが加工しやすいといった特性を与えます。
炭素の量を知ることは鋼鉄の特性を知るうえで重要ですが、試料を損ねることなく、非破壊かつ非接触で炭素を分析することはできませんでした。非破壊分析でよく利用される蛍光X線分析法※4は、炭素のような軽い原子の分析には適しておらず、また表面を分析することしかできません。現在最も利用されている鋼鉄中の炭素の分析法は、鋼鉄を燃やして内部に含まれている炭素を二酸化炭素に化学変化させて測定するものです。しかし微量な炭素の分析では鋼鉄表面に付着した汚れの影響を受けることがあり、分析には専門的な技術を要します。また、このような破壊的な分析方法は、鋼鉄の性質を調べる基礎研究では利用できますが、例えば文化財などの貴重な対象には適用できないという問題がありました。
研究グループは、ミュオンを利用することで、これまでとは全く異なる原理に基づく鋼鉄中の微量な炭素の分析法を開発しました。ミュオンは量子ビームの一つとして利用が進んでおり、その性質として電子と同じ電荷と、電子の207倍の質量をもっています。またミュオンは、2.2マイクロ秒(100万分の2.2秒)という短い寿命で崩壊して電子になります。研究グループは、これまでもミュオンを物質に打ち込むことで放出される、ミュオン特性X線※5を用いた、文化財や地球外試料の非破壊の元素分析を報告してきましたが、今回はミュオンの持つ異なる側面に注目した新たな分析法の開発に成功しました。
ミュオンを物質に打ち込み停止させると、ミュオンは物質中の原子に捕獲されてミュオン原子と呼ばれる奇妙な原子を形成します。ミュオンが電子に崩壊する過程は、ミュオン原子を形成した後のミュオンが原子核に吸収される反応と競合しており、ミュオンがどの原子に捕獲されたかによって見かけの寿命が異なることが知られています。例えば鉄に捕獲された場合は200ナノ秒(100万分の0.2秒)であり、炭素に捕獲された場合は2マイクロ秒(100万分の2秒)となります。研究グループは、ミュオンの寿命が原子に固有であることに注目し、ミュオンが崩壊して発する電子の測定から物質中の元素組成の情報が得られる、すなわち元素分析ができるという新たな着想を得ました。
図2:測定の様子。μSR法のために整備されていた電子検出器を用いてミュオンの寿命を測定した
この新しい元素分析法の実証のために、J-PARC MUSEの大強度のミュオンビームが利用されました。MUSEにはμSR法※6のために開発された電子検出システムがあり、その検出器をそのまま使用して実験が行われました。図3には実験で得られたミュオンの寿命スペクトルが示されています。すぐに減衰する鉄に由来するシグナルに加えて、炭素に由来するシグナルが観測されています。重要なことは、主成分であり高い強度の鉄のシグナルが短い寿命でなくなり、微量な成分である寿命の長い炭素のシグナルが遅い時間領域で明確に現れてくることです。
図3:炭素0.42%を含む鋼鉄から得られたミュオンの寿命スペクトル。スペクトルをフィッティングすることで、鋼鉄中の炭素に由来するシグナル強度を決定した
研究グループは、まず分析法の実証のために組成の分かっている鋼鉄を利用して、鋼鉄中の炭素濃度とミュオンの寿命測定から得られるシグナル強度の関係を調べました(図4)。炭素濃度とミュオンによるシグナル強度の間には、きれいな直線関係があることが分かり、ミュオンの分析により微量な炭素が定量分析できることが示されました。また、この関係から炭素の検出下限濃度は140ppm(100万分の140)であると見積もられました。今回の実験では、別の用途のために整備されていた検出システムを流用しており、今後専用の測定システムを開発することでより微量な炭素についても分析できることが期待されます。
図4:鋼鉄中の炭素含有量と、ミュオンで分析した鉄(Fe)と炭素(C)のシグナル強度比の関係(検量線)。この直線関係より、ミュオンによる分析値を炭素濃度に換算する
次に、非破壊で位置(深さ)選択的な分析が可能であるかが調べられました。ミュオンは透過力の高い量子ビームであり、エネルギーに応じて物質中で止める深さ、すなわち分析する深さを制御することができます。今回、図5に示すように3種類の異なる鋼鉄を重ね合わせた積層試料に、それぞれの層の中心にミュオンが停止するようなエネルギーでミュオンを打ちこんでミュオンの寿命スペクトルを取得しました。先に得た図4の関係を利用することでそれぞれのエネルギーごとの炭素分析値を求めたところ、破壊分析により調べた炭素含有量と一致し、今回の分析において積層試料の層ごとに選択的にミュオンを止め、分析できていることが確認できました。
図5:積層鋼鉄試料へのミュオンによる非破壊深さ選択分析実験の概要と結果
本研究成果により、ミュオンを利用すると鋼鉄中に含まれる1%未満(現在の検出限界は140ppm=0.014%)の炭素を非破壊で定量することが可能であることが分かりました。今後の研究開発によりさらに微量の炭素の分析が可能になると期待され、本分析手法はこれまで破壊的な分析が使われてきた炭素分析に新たな選択肢を与えるものになります。これにより本研究成果は鋼鉄の品質管理だけでなく、日本刀などの貴重な文化財への適用が期待されます。また、本手法は原理的には鋼鉄中の炭素の分析以外にも適用可能で、金属中の酸素の分析など、様々な応用的な手法の展開が期待されます。
※1.ミュオン
素粒子の一つ。ミューオン、ミュー(μ)粒子ともいう。電子の約200 倍の質量をもつ素粒子であり、電子と同じ大きさの電荷をもつ。加速器で大量に作ることができ、様々な研究で利用されている素粒子であり、基礎研究だけでなく非破壊元素分析などの応用分野での利用も近年進んでいる。
※2. 量子ビーム
原子や分子などの極めて小さい対象の様々な性質を解き明かすために利用されている最新技術の一つ。ミュオンの他には、放射光、中性子、低速陽電子が挙げられ、加速器などを利用して作り出したこれらの粒子を、細く、平行で大強度の流れ(ビーム)にしたもの。
※3. ミュオン科学実験施設(MUSE)
茨城県の東海村に設置された大強度陽子加速器施設J-PARC物質・生命科学実験施設(MLF) 内のミュオン施設。J-PARCは高エネルギー加速器研究機構(KEK)と日本原子力研究開発機構(JAEA)が茨城県の東海村で共同運営している大型研究施設で、素粒子物理学、原子核物理学、物性物理学、化学、材料科学、生物学などの学術的な研究から産業分野への応用研究まで、広範囲の分野での世界最先端の研究が行われている。MUSEは世界最高強度のパルス状のミュオンビームが利用できる。MLFでは他に中性子ビームを用いた研究も行われている。
※4.蛍光X線分析法
物質にX線を照射することで、物質中の原子がエネルギーを得てその元素に固有のエネルギーを持つ特性X線が発生する。この特性X線の強度を測定することで、対象物質の構成元素とその割合を求める測定手法。卓上の装置で非破壊分析が可能なことから、広い分野で利用されている。しかし基本的に試料表面しか分析できない、炭素などの軽い元素は分析が難しいといった制限もある。
※5.ミュオン特性X線
負の電荷を持つミュオンは、電子よりも原子核の近くに原子軌道を作るときにX線を放射する。このX線は原子から放射される電子による特性X線と区別するためにミュオン特性X線と呼ばれる。ミュオン特性X線は元素に固有のエネルギーを持つために、エネルギーの測定から元素の特定、定量ができる。さらにミュオン特性X線は、高いエネルギーを持つために物質の透過能が高く、物質内部の元素を非破壊で調べることができる。大阪大学では、これまでミュオン元素分析研究において、世界をリードする成果をあげている。関連する研究として以下のものがある。
※6.μSR法
ミュオンスピン回転・緩和・共鳴(Muon Spin Rotation,Relaxation,Resonance)法のこと。ミュオンはスピンをもつためミュオンを小さな磁石とみなして、そのスピンの向きから物質中の微小な磁場などを調べる物質研究の方法。μSR法では電子を検出するため、本研究の測定においても同じ装置が利用できた。
鋼鉄は我々にとって大変重要な物質です。その物質特性に大きく影響する炭素量を非破壊で分析することができるこの方法は、基礎研究にはとどまらない広い応用が期待できます。今回はミュオンの持つこれまであまり注目されていなかった性質を使って新しい分析法を開発したもので、日本が得意とする量子ビームの研究分野をますます発展させることに寄与できると考えています。
二宮和彦准教授
研究者総覧URL:https://rd.iai.osaka-u.ac.jp/ja/3701ebce92e1397c.html
横浜国立大学
一般財団法人 総合科学研究機構
J-PARCセンター
✣ 高エネルギー密度で長寿命・実用的なコバルトフリーの電池材料の発見
✣ 簡便な合成法を利用して構造欠陥の制御に世界で初めて成功
✣ 構造欠陥を利用することでコバルトフリーでありながら劣化を抑制
横浜国立大学 藪内直明教授、総合科学研究機構 石垣徹主任研究員、物質・材料研究機構(NIMS)、住友金属鉱山株式会社らの研究グループは、新しいニッケル系層状材料 (Li0.975Ni1.025O2) を開発し、本材料がコバルトフリー構成でありながら、高エネルギー密度・長寿命の電池正極材料となることを発見しました。また、高性能化は材料の欠陥構造の制御により実現しており、材料の合成方法も従来手法を利用できるため、当該材料は実用的な電池材料としての利用が期待できます。
本研究成果は、エルゼビア社が出版する 「Energy Storage Materials誌」(インパクトファクター 20.831) に2024年1月にオンラインで掲載されました。論文DOI: 10.1016/j.ensm.2024.103200
世界的に脱炭素社会実現への動きが加速しており、電気自動車などに用いられているリチウムイオン蓄電池の市場が急拡大している。同電池のさらなる高エネルギー密度化と低コスト化を目指して、世界中で活発な研究開発競争が行われている。近年、電気自動車の販売台数が世界中で増えているが、電気自動車用途にはコバルトを含むニッケル系層状酸化物が正極材料として広く用いられている。コバルトは資源が偏在しており、主に政情不安定な国で産出されるためその削減が急務であり、世界中で活発な材料開発競争が行われていた。電気自動車のさらなる普及において、コバルトフリー構成の正極材料開発は急務であり、コバルトフリーと高性能を両立する材料の開発が求められていた。
本研究成果は従来のニッケル系層状材料で10-20%程度含まれているコバルトの役割について詳細に検討し、コバルト非含有材料では充電状態にニッケルイオンが移動することが劣化の要因であることを明らかにしている。さらに、構造欠陥 (層状材料においてイオンが入れ替わったアンチサイト欠陥) を含有するモデル材料を合成し、構造欠陥を有する材料では充電状態におけるニッケルイオンの移動を抑制可能であることを明らかにした。これらの知見に基づき、実用的な合成法を用い構造欠陥を意図的に導入することを目的として、2-3%の極少量のニッケルイオンを過剰な組成とした材料 (Lisub0.975Ni1.025O2) を合成した。この材料について詳細に結晶構造を解析した結果、実際に構造欠陥を有しており、さらに、充電中のニッケルイオンの移動を抑制できることを明らかにしている。また、コバルト含有試料以上の高いエネルギー密度とサイクル特性を実現しているだけでなく、優れた急速充電特性と出力特性も有している。本研究成果は次世代の電気自動車用の電池材料としての応用が期待できるものである。これらの成果は、横浜国立大学 理工学府博士課程後期3年生 小沼樹氏、理工学部4年生 藤村陽大氏によって見出されたものであり、大型放射光施設SPring-8※1 (BL19B2)、フォトンファクトリー、大強度陽子加速器施設 J-PARC※2 MLF (BL20, iMATERIA)における実験によって明らかにしている。
今回発見された材料はコバルトフリー材料として高性能な電気自動車用の材料として実用的に利用可能な性能を有することを明らかにしている。今後、実際に高性能な電気自動車用電池材料としての利用が進むことが期待される。しかし、ニッケルは比較的高価な元素であり、低価格な電気自動車用用途には適していない。今後、コバルトだけではなく、ニッケルフリー構成を実現する電池材料も必要であり、また、そのような材料は今回発見された材料と同様に実用的な合成法で大量生産可能であることが求められる。現在、今回の知見をもとにコバルト・ニッケルフリー構成を実現する実用的な材料開発も進めており、次世代の低価格と高性能を両立するリチウムイオン電池の実現に繋がることが期待できる。
本研究は横浜国立大学、総合科学研究機構、NIMS、住友金属鉱山株式会社の産学連携共同研究成果であり、科研費新学術領域「蓄電固体界面科学」および再生可能エネルギー最大導入に向けた電気化学材料研究拠点 (DX-GEM) による助成を受けて実施したものである。
横浜国立大学、総合科学研究機構、NIMS、住友金属鉱山株式会社の研究グループにおけるコバルトフリーニッケル系層状材料に関する研究成果の概要図
※1. 大型放射光施設(SPring-8)
SPring-8は、兵庫県の播磨科学公園都市にある理化学研究所が所有する世界最高クラスの放射光を生み出す大型放射光施設で、利用者支援等は高輝度光科学研究センター(JASRI)が行っている。SPring-8の名前はSuper Photon ring-8 GeVの略。放射光を用いてナノテクノロジー、バイオテクノロジーや産業利用まで幅広い研究が行われている。
※2. 大強度陽子加速器施設(J-PARC)
J-PARCは、日本原子力研究開発機構(JAEA)と高エネルギー加速器研究機構(KEK)が茨城県東海村で共同運営している大型研究施設で、素粒子物理学、原子核物理学、物性物理学、化学、材料科学、生物学などの学術的な研究から産業分野への応用研究まで、広範囲の分野での世界最先端の研究が行われている。J-PARCの物質・生命科学実験施設(MLF)では、大強度の陽子ビームを用いて発生した世界最高強度のパルス中性子ビームおよびミュオンビームを利用した物質科学、生命科学などの学術的な研究ならびに産業分野への応用研究が進められている。
J-PARCメインリングでは、令和5年12月25日、ニュートリノ実験施設に760kWのビームを連続で供給することに成功しました。
J-PARCプロジェクト開始以来20年目指してきた悲願であり、非常に大きなマイルストーンを達成したことになります。
また、T2K 実験国際共同研究グループは、ニュートリノ生成装置の増強を行い、単位時間当たり過去最多のニュートリノを生成できるようになりました。さらに、新たに新型の前置検出器をJ-PARC 内に設置したことによって、ニュートリノを観測する際の原子核との反応を従来より高精細に観測できるようになりました。
これらに伴い、下記のとおり、プレス勉強会(プレスリリースの説明及び施設見学)を行います。
報道関係各位におかれましては、事前申し込みの上、ご取材くださいますようご案内申し上げます。
※J-PARC (Japan Proton Accelerator Research Complex) は、日本原子力研究開発機構(JAEA)と高エネルギー加速器研究機構(KEK)が共同で運営している先端大型研究施設で、素粒子物理、原子核物理、物質科学、生命科学、原子力などの学術的な研究から産業分野への応用研究まで幅広い分野の世界最先端の研究が行われています。
記
T2K 実験国際共同研究グループ
高エネルギー加速器研究機構
東京大学宇宙線研究所
J-PARCセンター
- Question -
✣ T2K実験は、素粒子であるニュートリノとその反粒子である反ニュートリノの性質の違いを調べる実験を行っています。性質が明らかに異なると言うためには、「より多くのニュートリノを観測すること」、また「ニュートリノと物質(原子核)の反応の過程を深く理解すること」が課題でした。
- Findings -
✣ 大強度陽子加速器施設J-PARCでは、人工ニュートリノをつくるための陽子加速器を増強しました。またT2K実験国際共同研究グループは、この改修に併せてニュートリノ生成装置の増強を行いました。その結果、単位時間当たり過去最多のニュートリノを生成できるようになりました。さらに、新たに新型の前置検出器をJ-PARC内に設置したことによって、ニュートリノを観測する際の原子核との反応を従来より高精細に観測できるようになりました。
- Meaning -
✣ T2K実験は、これまでにニュートリノと反ニュートリノの性質の違いの大きさを表す量に世界で初めて強い制限を与えるなどの成果を出していますが、今回の改善で飛躍的に精度を高める新たな段階に入りました。ニュートリノと反ニュートリノの性質の違いを調べることは、宇宙から反物質が消えた謎の解明に繋がります。今後もニュートリノ研究で世界をリードすると期待されます。
図1: 増強したニュートリノ生成装置の主要部 (左) と今回導入した新型検出器 (右) のイメージ図 |
反物質が消えた謎に素粒子ニュートリノで迫るT2K実験は、増強された加速器による過去最高のニュートリノ生成と新型検出器の初稼働に成功しました。これらの改善で飛躍的に精度を高めて測定を行うことで、今後も世界をリードする成果が期待されます。
T2K実験国際共同研究グループは、増強されたニュートリノビームと新型ニュートリノ検出器を用いた実験データ取得を2023年12月より開始しました。これにさきだち、KEK/J-PARCセンターはメインリング加速器およびニュートリノビームラインの出力を増強する改修を行い、より多くの陽子をニュートリノ生成施設に供給することができるようになりました。2023年11月から陽子ビームを用いた調整運転をはじめ、増強前と比較して約40%増の過去最高ビーム強度 (約710キロワット) での定常的なニュートリノビーム生成を達成しました。また12月25日にはメインリング加速器の当初の目標性能を超える760キロワットでの連続運転にも成功しました。T2K実験は、ニュートリノ生成装置の増強を行い、生成装置の心臓部であるパルス電磁石 (電磁ホーン)の印加電流を従来の25万アンペアから32万アンペアにしました。これにより陽子ビームと標的との反応で生成されたニュートリノの素となる荷電粒子の収束効率が向上し、ニュートリノビームの強度を10%程度増加することができました。また、ニュートリノ反応を従来よりさらに高精細に測定できる新型検出器群を設置しました。新しく設置した検出器は、その内部で起きたニュートリノ反応の反応点周りの飛跡を検出するSuperFGD、従来の検出器がカバーしていなかった大角度方向に放出された粒子の運動量測定などを行うHigh-Angle TPC、粒子の飛来方向同定や粒子識別などを行うTime-of-Flightからなります。これらの新しい装置により従来の検出器では捉らえることが出来なかった反応点周りの飛跡や大角度方向に放出された反応生成粒子を観測できるようになり、T2K実験は飛躍的に精度を高めた測定が可能になる新たな段階に移行しました。ビーム運転開始後の新型検出器の調整運転で、ニュートリノ事象候補の観測に成功しました。
T2K実験は2020年、世界で初めてニュートリノと反ニュートリノの振る舞いの違いの大きさを示す物理量 (CP位相角) に大きな制限を与えました。これらの増強で今後も世界をリードする実験によりその検証を進めることで、ニュートリノの性質の理解がさらに進み、宇宙から反物質が消えた謎の解明に繋がると期待されます。
T2K実験国際共同研究グループは、世界14の国・国際機関にある78の研究機関から、約570人の研究者が参加する国際共同研究グループです。日本からは、大阪公立大学・岡山大学・京都大学・慶應義塾大学・高エネルギー加速器研究機構・神戸大学・総合研究大学院大学・東京工業大学・東京都立大学・東京大学・東京大学宇宙線研究所・東京大学カブリ数物連携宇宙研究機構・東京理科大学・東北大学・宮城教育大学・横浜国立大学の研究者と大学院生総勢130名が参加しています。
T2K実験は茨城県東海村にある大強度陽子加速器施設J-PARCで生成したニュートリノを、約300 km離れた岐阜県飛騨市神岡町にあるスーパーカミオカンデに打ち込んで、ニュートリノ振動※1を調べる実験です。T2K実験は2009年度から測定を開始し、2013年に電子ニュートリノ出現事象を世界で初めて直接検出しました。2014年からは反ニュートリノビームを用いた測定を開始し、CP対称性の破れ※2の検証を始めました。2020年にCP位相角※3の取りうる値に世界で初めて大幅な制限を与えました。さらに検証を進めてCP位相角の取り得る範囲から0度と±180度を排除すると、CP対称性の破れの証拠が得られます。しかしながら、測定精度を高めて検証を進めるには、より多くのニュートリノを生成すること、またニュートリノと原子核の反応を深く理解することが課題でした。
※1.ニュートリノ振動
ニュートリノが空間を伝わるうちに別の種類のニュートリノに周期的に変化する現象です。この現象の発見によってニュートリノが質量を持つことが示され、2015年に梶田隆章氏がノーベル物理学賞を受賞しました。
※2. CP対称性の破れ
CP対称性の「C」は粒子と反粒子を入れ替える (例えば、電子を逆の電荷を持つ陽電子と入れ替える) 「C変換」、「P」は鏡写しのように空間に対して上下左右前後の向きを入れ替える「P変換」を表します。この「C変換」と「P変換」をした場合に、同じ物理現象が同じ確率で起きることを「CP対称性」と呼びます。CP対称性に従わない場合、「CP対称性が破れている」と言います。CP対称性の破れは、現在の宇宙が物質で占められており、反物質がほとんど存在していないことを説明する条件の一つです。しかしながら、これまでに見つかっているクォークのCP対称性の破れはとても小さく、現在の宇宙の物質の量を説明することができていません。そのためニュートリノのCP対称性の破れが大きな手がかりになると期待されています。
※3. CP位相角画
CP位相角は、小林誠氏と益川敏英氏によってクォークにおけるCP対称性の破れを説明するために導入された素粒子にはたらく「弱い相互作用」の基本的な性質です。-180度から180度の値をとり得ますが、電子やニュートリノの仲間であるレプトンについては近年までその値は全く分かっていませんでした。CP位相角が0度と±180度以外の値をとると、ニュートリノ振動での変化確率にニュートリノと反ニュートリノで違いが生じます。T2K実験は2020年、CP 位相角のとり得る値の範囲の半分近くを99.7%(3シグマ)の信頼度で排除しました。
T2K実験国際共同研究グループは、増強されたニュートリノビームと新型ニュートリノ検出器をもちいた実験を開始しました。ニュートリノは、陽子ビームと黒鉛標的が衝突・反応して生成されたパイ中間子などの粒子が崩壊する際に生成されます。KEK/J-PARCセンターはメインリング加速器の主電磁石用電源など主幹機器を増強改修し、加速の繰り返し頻度を2.48秒から1.36秒に早めるなどして、より多くの陽子をニュートリノ実験施設に供給できるようになりました。T2K実験国際共同研究グループは、メインリング加速器から取り出された陽子ビームを用いてニュートリノビームを生成する、標的、電磁ホーン、ビームモニターなどの装置の増強・改造・交換を行い、大強度化した陽子ビームに対応しました。2023年11月からビーム調整運転を開始し、増強前と比較して約40%増の過去最高強度(約710キロワット)での安定運転を達成しました。12月25日にはメインリング加速器の当初の目標性能を超える760キロワットでの連続運転にも成功しました。さらに、ニュートリノ生成装置では、心臓部である電磁ホーン(図2)の電源を強化するなどして3台の電磁ホーンに印加する電流を、従来の25万アンペアから32万アンペアに増やすことで、標的で生成されたパイ中間子などのニュートリノの親粒子の収束効率を高めました。これによりスーパーカミオカンデ検出器に届けるニュートリノビームの質を高めるとともに、観測するニュートリノの数をさらに10%程度増やすことができます。
また、T2K実験国際共同研究グループは、ニュートリノ生成標的の280メートル下流にあるニュートリノモニター棟にて、新型検出器群(図3)を用いた観測を開始しました。2023年10月までに、3種類の検出器が新たに導入されました。新しい検出器群の中心に配置されるのは、有感領域に約2トンの質量を持つ新型検出器SuperFGDです。プラスチックシンチレータでできた1立方センチメートルの穴付きキューブ約200万個を積層した革新的な構造を持ちます。キューブを3方向から貫く約5万6千本の光ファイバーとその終端にある光検出器を通して、荷電粒子を3方向の視点から高精細に観測し、その飛跡を再構成することができます。ニュートリノビームの向きに対して大角度方向に位置するのはHigh-Angle TPCです。ニュートリノ反応によって大角度方向に放出された粒子の運度量測定などを精度良く行うことができます。最後に、それらの検出器を囲むように設置された検出器がTime-of-Flightです。粒子の飛来方向同定や粒子識別などを行います。2023年秋にこれらの検出器を設置して調整作業をすすめ、2023年12月からニュートリノビームの観測を開始し、新たに取得された実験データからニュートリノ反応事象の事象候補を捉えることに成功しました(図4,5)。
図2 : 大強度陽子ビームによるニュートリノ生成を可能にするため冷却能力を強化した第二電磁ホーン
図3 : 新型の前置検出器の写真
図4 : 新型の前置検出器で観測したニュートリノ事象候補 (ニュートリノがSuperFGDで反応して、その反応から放出された粒子の1つがHigh-Angle TPCに、もう1つが従来から設置されている検出器に入っている)
図5 : 新型の前置検出器の1つTime-of-Flightで観測したビーム時間構造
これらの改善によりT2K実験は、増強されたニュートリノビームと革新的な前置検出器による新たなフェーズに移行しました。J-PARC加速器およびニュートリノ実験施設は、T2K実験へのビーム供給を行いながら、さらに1.3メガワット(= 1300キロワット)まで出力を増強させるアップグレード計画を進めています。収束効率が向上した電磁ホーンなど、ニュートリノ生成装置の性能向上と併せて従来と比較して約3倍のニュートリノ反応(単位時間あたり)を観測できるようになり、観測データの統計的ばらつきに由来する誤差(統計誤差)を小さくすることができます。また、新型検出器では従来の検出器では苦手としていたニュートリノの大角度散乱を捉えられるようになるなど、ニュートリノと物質(原子核)の反応をより深く理解できるようになり、系統誤差を小さくすることができます。前述の内容に加えて、スーパーカミオカンデ検出器も水中にガドリニウムを溶解させたことにより中性子検出効率が大幅に高くなり、検出器性能が向上しています。T2K実験はこれらの改善によって飛躍的に測定精度を高め、ニュートリノと反ニュートリノの振る舞いの違いの検証を進めます。
今回増強された大強度陽子加速器J-PARCおよびニュートリノ実験施設は、2020年より建設中のハイパーカミオカンデによる次世代のニュートリノ研究でも基幹となる役割を果たすことが期待されています。2027年度からは、増強されたJ-PARCニュートリノビームとハイパーカミオカンデを組み合わせることで、従来の20倍以上のニュートリノ振動現象を観測することが可能になります。新たに始まったT2K実験の新しいフェーズは次世代の実験につながる重要な一歩であり、宇宙から反物質が消えた謎の解明にせまるニュートリノ研究で今後も世界をリードすることが期待されます。
J-PARCセンター
高エネルギー加速器研究機構
日本原子力研究開発機構
- Background -
✣ 茨城県東海村の大強度陽子加速器施設J-PARCでは、陽子をほぼ光の速さまで加速し、素粒子や原子核の未知の現象を捉えるさまざまな実験を行っています。実験の成否は、加速された陽子を実験施設に供給できる数に大きく依存するため、その指標である「ビームパワー」を増やす努力を続けてきました。
- Achievements -
✣ 「メインリング」と呼ばれる加速器では、2008年の運転開始以来、段階的にビームパワーをあげて来ました。大幅な増強を経て2023年12月25日、当初目標を超えるビームパワー760kWを達成しました。電磁石にたまったエネルギーを効率よく回収、再利用することで、これまでと同じ消費電力で約1.5倍のビームパワーを供給しており、大幅な省エネも実現しました。
- Meaning -
✣ J-PARCでは、ニュートリノという素粒子の基本的な性質を調べるT2K実験を行っています。ノーベル賞が相次いで出るなど日本のニュートリノ研究は世界のトップレベルですが、今回のビームパワー向上でT2K実験が大きく飛躍し、それに続くハイパーカミオカンデ計画に向けて新しい成果を世界に先駆けて出すことが期待されます。
J-PARCのメインリングの電磁石の一部
茨城県東海村の大強度陽子加速器施設J-PARCの「メインリング」加速器で、性能指標であるビームパワーが当初目標を超える760kWを達成しました。大幅な省エネも実現しています。T2K実験の飛躍が期待されると同時に、ハイパーカミオカンデ計画への道筋を確実にしました。
茨城県東海村にある大強度陽子加速器施設J-PARC(Japan Proton Accelerator Research Complex)を、高エネルギー加速器研究機構(KEK)と日本原子力研究開発機構(JAEA)が共同で建設し運営しています。素粒子物理学、原子核物理学、物性物理学、化学、材料科学、生物学などの学術的な研究から産業分野への応用研究まで、広い分野での世界最先端の研究が行われています。運営組織をJ-PARCセンターと呼んでいます。
線形加速器(LINAC)と、3GeV(ギガ電子ボルト、GeVは加速された粒子の運動エネルギーの単位)まで加速できるRCS (Rapid-Cycling Synchrotron)と呼ばれる円形加速器、メインリングと呼ばれる円形加速器の3台で段階的に陽子を加速し、ニュートリノ実験施設などに陽子ビームを供給しています。
加速した陽子を標的にぶつけ、生成される中性子やK中間子、ニュートリノなどの粒子をさまざまな実験に使います。実験の感度は、生成される粒子の総数で決まります。その数は、標的に入射した陽子の数に比例します。より高い感度の実験を行うためには、より多くの陽子が必要です。そのためには、単位時間あたりにどれだけの陽子を加速できるかという指標「ビームパワー(※1)」が重要となります。単位はkW(キロワット)です。
メインリングは750kWを当初の目標性能として設計されたシンクロトロン方式の円形加速器です。これまでに数多くのビーム調整と改良を積み重ね、2019年にビームパワーが500kWに達しました。加速器の大幅な増強を実施して2022年度から加速調整運転を行い、2023年12月25日にこれまでの最高となる760kWのビームパワーを出すことに成功しました(グラフ1)。
グラフ1. 年度ごとのメインリングの最大ビームパワー
磁場の力でビームを円軌道にする電磁石のための電源には、大容量のコンデンサーを用いる方式を採用しました。電磁石にたまったエネルギーを効率的に再利用するアイデアで、今回のビームパワー760kWを、メインリング増強前と同等の消費電力で達成しています。同じ消費電力で約1.5倍のビームパワーを実現したことになります。
メインリングで加速された陽子を利用するニュートリノ実験施設では、ニュートリノを生成する装置が大きなビームパワーに耐えられるように増強され、放射線遮蔽などが強化されました。2023年12月25日には、ビームパワー760kWでの安定的なニュートリノの連続生成を実現しました。
※1.ビームパワー
ビームパワーとは、陽子の運動エネルギーと単位時間あたりに取り出される陽子数の積です。これが加速器の性能指標となり、二次粒子、三次粒子の発生量の決め手になります。
J-PARCセンター 加速器ディビジョンの五十嵐進教授 :
機器の改造およびビーム調整にあたり、メンバーそれぞれが努力し、優れたチームワークを発揮して、ひとつの目標に到達しました。多数の人が関わった長年の目標でしたので安堵とともに感慨深く思います。今後研究を続けさらに高い目標に向かいます。
J-PARCメインリングのビームを利用する主要な実験の一つは、ニュートリノという素粒子の基本的な性質を調べるT2K実験(東海-神岡間長基線ニュートリノ振動実験、※2)です。メインリングで30GeVのエネルギーまで加速した陽子をニュートリノ実験施設に取り出して標的に照射します。
そこで発生した二次粒子を収束して生成したニュートリノを、295km離れた岐阜県飛騨市神岡町にある「スーパーカミオカンデ」検出器で観測します。物質とほとんど反応をしないニュートリノが長距離を飛行することで起こす変化を精度よく測定するためには、たくさんのニュートリノが必要ですが、そのためにはニュートリノをつくりだす陽子の高いビームパワーが必要となるのです。
※2. T2K実験
J-PARCのメインリングとニュートリノ実験施設によって大強度ニュートリノビームを作り、295km離れた岐阜県飛騨市神岡町の地下1,000mに位置する東京大学宇宙線研究所の5万トン水チェレンコフ検出器スーパーカミオカンデに打ち込み、ニュートリノの謎を解明する実験です。
T2K実験の概要
メインリングはシンクロトロン方式の加速器で、前段の加速器からエネルギー3GeVのビームを入射し、30GeVまで加速し、そのビームを実験施設へ向けて1パルス出射します。そして次のビーム入射のために電磁石の磁場を3GeV相当まで戻して、次のサイクルを繰り返します。メインリングのビームパワーを上げるためには下記の工夫が必要です。
・一度に加速できる陽子の数(パルスあたりの陽子数)を増やす
・繰り返し周期を短くし、ビーム出射頻度を高くする
加速陽子数を増やすためには、陽子の取りこぼし(ビームロス)を少なくする必要があります。ビーム内の陽子どうしの電荷による反発力がある中で、メインリングで10万回以上周回させながら加速しています。ビームロスを少なくするために、加速器を構成する電磁石の磁場および高周波加速装置の電圧などを精密に調整する必要があります。例えば、電磁石は精度良く製作されていますが、それでも微小な誤差磁場により周回中にビームサイズが大きくなり、ビームロスにつながります。そのビームロスを低減するように電磁石の磁場を調整しています。また、前段の加速器(線形加速器とRCS)のビーム調整もメインリングのビームロス低減のために重要で、それらの加速器と連携してビーム調整を行っています。大強度ビーム加速に適した運転条件の探索、およびビーム不安定性への対処、ビームロス低減のための機器を追加するなどにより、2019年にはメインリングのビームパワーが500kWに達しました。そのときのパルスあたり陽子数は265兆個で、シンクロトロン方式の陽子加速器における世界最高値です。
2021年の夏から運転を長期休止し、サイクルの繰り返し周期を2.48秒から1.36秒に短縮する大改造を行いました。
この改造は、陽子ビームをメインリングに入射する装置、陽子にエネルギーを与える高周波加速装置、陽子ビームを周回軌道とするための主電磁石用電源装置、加速された陽子ビームを利用する実験施設への出射のための機器など多岐にわたります。その後、更新機器の通電試験を行い、安定にビーム運転に使用できる状態となったことを確認しました。2023年から1.36秒の繰り返し周期によるビーム調整およびニュートリノ実験施設への供給運転を行い、12月25日にはビームパワー760kWでのビーム供給に成功しました(グラフ2)。
ニュートリノ実験施設では、二次粒子を集める電磁石(電磁ホーン)などがメインリングにあわせて1.36秒周期で動作するように増強されました。また大パワーのパルス陽子ビームの照射により熱衝撃をうける標的等の装置の冷却を強化しました。また、周辺環境を守るための放射線遮蔽などの設備も強化し、メインリングの性能を活かして安定的にこれまでよりも多くのニュートリノを実験で利用することができるようになりました。
加速陽子の数の目標は世界の誰も達成できていないもので、ビームロス低減の目標も高く、達成が容易ではないものでした。メインリングの前段に当たる線形加速器、RCSも調整や改造を重ねたうえで、予想されなかった事象にも対処しつつ、少しずつビームパワーを上げていき、メインリングを大幅に増強することで達成しました。目標達成に15年かかりましたが、大きな節目を迎えたと考えています。
今後さらにビーム調整を進め、ビームロスを低減し、より安定な運転ができるようにしていきます。
T2K実験は、ニュートリノと反ニュートリノの性質の違いを確かめるのが現時点での大きな目標です。性質の違いは「CP対称性の破れ」と呼ばれ、宇宙が誕生した時には同量できたと考えられている物質と反物質のうち、反物質は消えて物質だけが残って現在の宇宙ができている理由の解明につながるものです。目標達成のためには大量のデータ取得が必要です。
将来的には、T2K実験に続く次世代のニュートリノ研究であるハイパーカミオカンデ計画(※3)に向けて、繰り返し周期をさらに短い1.16秒に短縮することに加えて、取り出し陽子数を330兆個と増やすことができるように高周波加速装置の増設を行います。2028年までにビームパワー1.3MWまで高める計画です。
※3. ハイパーカミオカンデ計画
岐阜県飛騨市神岡町の地下にあるスーパーカミオカンデに隣接する形で新型検出器を建設し、陽子崩壊やニュートリノの精密観測を通じて素粒子の統一理論や宇宙進化の解明を目指す実験です。検出器は直径68m、深さ71mの円筒形のタンクに超純水を満たしたもので、感度はスーパーカミオカンデの約10倍の予定。実験開始は2027年を見込んでいます。
理化学研究所
名古屋大学
高エネルギー加速器研究機構
J-PARCセンター
京都大学複合原子力科学研究所
理化学研究所(理研)光量子工学研究センター先端光学素子開発チームの藤家拓大大学院生リサーチ・アソシエイト(研究当時、現研究パートタイマー)(名古屋大学大学院理学研究科博士後期課程学生)、山形豊チームリーダー、細畠拓也上級研究員、名古屋大学素粒子宇宙起源研究所現象解析研究部門の北口雅暁准教授、高エネルギー加速器研究機構物質構造科学研究所中性子科学研究系の三島賢二特別准教授、京都大学複合原子力科学研究所粒子線基礎物性研究部門の日野正裕教授らの共同研究グループは、従来手法を大幅に上回る感度で中性子に及ぼされる相互作用[1]を測定できる、新型中性子干渉計の開発に成功しました。本研究成果は、中性子の相互作用の測定の限界を打開し、物理学の発展に寄与することが期待されます。
量子ビーム[2]の一種である中性子[3]を利用した干渉計は、中性子が波動として分割・重ね合わせできる性質を利用することで、中性子による相互作用を精密に測定できます。中性子干渉計は、測定感度の高さから、これまで物質分析などのさまざまな物理実験に利用され、物理学の発展に貢献してきました。しかし、従来の中性子干渉計は、ビーム制御の難しさと実験体系の制約から感度向上に限界がありました。
共同研究グループは、従来手法と全く異なる原理を用いた新型中性子干渉計を開発しました。本装置は人工的に作成した中性子反射ミラーを高精度に配置することで幅広い波長帯域の中性子を利用できるようになったため、従来型と比べて飛躍的に感度が向上したことに加え、取り扱いが容易になりました。今回開発した干渉計は、物質分析の高精度化だけでなく、原子核や素粒子の間に働く力の研究や宇宙膨張の謎の解明など、幅広い分野の研究に活用されると期待されます。本研究は、科学雑誌『Physical Review Letters』オンライン版(1月12日付:日本時間1月13日)に掲載されます。
われわれの身の回りにある光などの電磁波は波の性質を持っています。シャボン玉が虹色に光る現象は、特定の条件において光が干渉していることに由来します。中性子も同じく波の性質を持ち、二つの異なる経路を通った中性子を再び重ね合わせると干渉現象を観測できます。この干渉を測定することに特化した中性子干渉計は、観測される干渉模様の周期構造からそれぞれの経路で中性子が経験した相互作用の違いを極めて精度よく決定することができます。
中性子干渉計は1974年に実用化されて以来、核子間の相互作用の解明、量子力学の検証、重力の理解などのための実験に広く利用されてきました。近年は、素粒子標準理論[4]では想定されていない未知の相互作用の探索実験などにも利用することが期待されています。これらの研究の精度向上のために、中性子干渉計のさらなる高感度化が期待されています。
従来の中性子干渉計は、シリコン単結晶を加工することで構成されています。単結晶のブロックは結晶構造がそろっているので、複雑な位置調整をしなくても中性子波を正確に重ね合わせて干渉縞[5]を測定できます。一方で、測定感度は装置内で中性子が2経路に分かれて飛んでいる時間に比例するため、感度を上げるには利用する中性子の長波長化、あるいは装置の大型化が求められます。しかし、大きな単結晶のブロックを作ることは困難です。さらに、単結晶では特定の条件を満たした波長の中性子しか利用できないため、実験施設が供給する中性子のごく一部しか実験に利用できません。そのため、一回の測定に長い時間がかかり、装置全体を安定させるために大型の防振装置や温度調整機構などが必須でした。これらの問題を解決しようと中性子干渉計の開発は継続的に行われてきましたが、中性子が干渉するよう各素子を精密に制御することが困難なため、どれも実用化には至っていませんでした。
共同研究グループは、反射できる中性子の波長を自在に選べる「多層膜中性子ミラー」を用いた中性子ビームの制御に着目しました。ニッケルとチタンの薄い膜をガラス基板に交互に積層した多層膜は、中性子にとっては人工的な結晶のように振る舞い、層の厚さに対応した波長の中性子を反射します。基板として高精度光学素子であるエタロン[6]を利用することで、中性子ビームを重ね合わせるのに必要な精度を満たしたミラーの設置が実現しました(図1)。中性子干渉計に必要な4枚のミラーはそれぞれ独立に作製され、実験に応じて柔軟に位置を変更できます。さらに、多層膜中性子ミラーは結晶に比べ幅広い波長の中性子を利用できます。中性子の利用効率が向上し測定時間が短くなることで、装置の安定化のための仕組みが簡便になりました。
図1 多層膜中性子ミラーが成膜されたエタロンで構成された中性子干渉計
左:エタロンは、2枚のガラス基板とスペーサーを用いて平行に固定することで構成されている。ガラス基板の内側には多層膜中性子ミラーが成膜してあり、これによって中性子を反射する。
右:中性子ビームは一つ目のエタロンによって2経路に分離し、二つ目のエタロンで再び重ね合わせられる。
干渉縞の測定実験は、大強度陽子加速器施設(J-PARC)[7]の物質・生命科学実験施設(MLF)[7]において行われました。ここでは、実験装置にさまざまな波長の中性子がパルス状に飛来する「パルス中性子源」が利用できます。中性子は波長に応じて速度が異なるため、検出器で中性子を捉えた時間により中性子の波長を決定できます。そして干渉縞の構造は波長に依存することから、本研究において中性子の波長に依存した干渉縞の観測に初めて成功しました(図2)。観測された干渉縞の可視性はおよそ60%であることが確認され、物理実験に十分利用可能であることが示されました(図3a)。さらに、繰り返し飛来するパルス状の中性子による干渉縞を連続して測定することによって、干渉縞の時間変化を追随して観測できるようになりました。これにより観測データから時間に依存したノイズの除去が可能になり、防振装置など安定化のための仕組みが簡便になりました。
図2 開発した中性子干渉計の概略図と観測された干渉縞
中性子ビームは二つのエタロンによって2経路に分離し、再び重ね合わせられる。重ね合わさった中性子ビームの強度(O-Beam、H-Beam)は、その波長に依存して周期的に変化する。それぞれの経路での波の進み方は、挿入された試料に依存して変化する。
実証実験としてシリコン試料を一方の経路に挿入したところ、明らかな干渉縞の変化が観測されました(図3b)。この変化を解析することで、中性子と物質の相互作用を表す中性子核散乱長[8]を決定できました。共同研究グループは、アルミニウム、チタンなどのいくつかのサンプルに対する中性子核散乱長の測定にも成功しました。特に、バナジウムに関しては、これまでの研究と異なる結果が得られ、新たな議論を呼び起こす可能性があります。
図3 試料の挿入によって変化する干渉縞
左:一方の経路にシリコン試料を挿入しない場合の干渉縞。
右:一方の経路にシリコン試料を挿入することで、干渉縞の明確な変化を観測した。
赤のデータ点は強度比によって規格化された干渉縞の実験値であり、実線はモデル関数を用いたフィットの結果である。干渉縞の変化は、それぞれの縞にフィットされたモデル関数の変化から評価した。
本研究で開発した中性子干渉計は、今後の開発でさらなる高感度化が可能です。例えば、強度の大きい中性子を利用できるよう実験施設ごとに多層膜中性子ミラーの構成を最適化することで、測定精度を今より約5倍向上できます。また、ミラーの配置にはシリコン単結晶のような制限がないため、さらなる大型化が可能です。このような改善により、飛躍的な感度向上が期待されます。
今回の干渉計は、幅広い中性子を利用して波長に対する干渉縞を取得するという、新しい原理で動作します。そのため、過去に従来の干渉計で行われた実験を高い精度で再検証することができます。例えば、地球の重力が中性子に与える影響を測定することで、微小な粒子における重力の理解を深めることができます。今後は測定感度の高さを生かして未知の相互作用の探索実験など、物理学の幅広い分野への貢献が期待できます。
タイトル | Development of Neutron Interferometer using Multilayer Mirrors and Measurements of Neutron-Nuclear Scattering Length with Pulsed Neutron Source |
---|---|
著者名 | Takuhiro Fujiie, Masahiro Hino, Takuya Hosobata, Go Ichikawa, Masaaki Kitaguchi, Kenji Mishima, Yoshichika Seki, Hirohiko M. Shimizu, Yutaka Yamagata |
雑誌 | Physical Review Letters |
DOI | 10.1103/PhysRevLett.132.023402 |
[1] 相互作用
物体や粒子が互いに及ぼし合う力のこと。現在の物理学では、「電磁気力」「重力」「強い力」「弱い力」の4種類の基本的な相互作用によって自然現象を説明する。
[2] 量子ビーム
量子力学的な性質を利用するビーム。飛来する中性子や光などを指す。
[3] 中性子
原子核を構成する基本粒子の一つ。質量を持ち電荷を持たない特徴がある。
[4] 素粒子標準理論
物質を構成する最小の粒子である素粒子の振る舞いを記述する基本理論。現在知られている物理現象を最も精度よく統一的に説明できる。一方で、理論的には不完全な点が指摘されており、この問題を解決するための新しい理論は未知の相互作用の存在を予言している。
[5] 干渉縞
波動が干渉したときに生じる明暗の縞模様。位相の異なる波動が重なり合ったとき、波動の山と山が重なった地点では強め合い、山と谷が重なった地点では弱め合うため、波動の強度が周期的に変化して縞模様を作る。
[6] エタロン
二つのガラス基板とエアギャップにより構成される。双対するガラス基板は10ナノメートル(nm、1nmは10億分の1メートル)程度の平行精度を持つ。光学分野では、入射した電磁波がエアギャップ内で多重反射することによって、特定の波長を持った電磁波を取り出すことができる素子として広く使われる。
[7] 大強度陽子加速器施設(J-PARC)、物質・生命科学実験施設(MLF)
J-PARCは、高エネルギー加速器研究機構と日本原子力研究開発機構が茨城県東海村で共同運営している大型研究施設で、素粒子物理学、原子核物理学、物性物理学、化学、材料科学、生物学などの学術的な研究から産業分野への応用研究まで、広範囲の分野での世界最先端の研究が行われている。J-PARC内のMLFでは、世界最高強度のミュオンおよび中性子ビームを用いた研究が行われており、世界中から研究者が集まっている。J-PARCはJapan Proton Accelerator Research Complexの略、MLFはMaterials and Life Science Experimental Facilityの略。
[8] 中性子核散乱長
中性子と原子核の相互作用の大きさを表す量。中性子を利用したさまざまな研究において基礎的なパラメータとして用いられる。その値は核子の種類によって異なり、理論計算が困難なことから、実験値がデータベース化されている。
本研究は、日本学術振興会(JSPS)科学研究費助成事業基盤研究(B)「中性子干渉計を用いた暗黒宇宙の多角的研究(21H01092、研究代表者:北口雅暁)」による助成を受けて行われました。藤家拓大は理化学研究所の大学院生リサーチ・アソシエイトおよび東海国立大学機構融合フロンティア次世代研究事業(助成番号:JPMJSP2125)の支援のもとで研究を行いました。J-PARC MLFでの中性子利用実験は、ユーザープログラム(課題番号: 2020A0226、2020B0222、2021B0109、2022A0116)およびKEKのS型プロジェクト(課題番号: 2019S03)のもとで実施されました。
東京大学
高エネルギー加速器研究機構
J-PARC センター
✣ 量子磁性体のスピン波寿命を磁場で制御することに世界で初めて成功しました。
✣ スピン波寿命に関する研究はこれまで数多くありましたが、寿命を制御するのは初めての試みです。
✣ 外場からの寿命制御が可能になったことで、量子磁性体がスピン流制御の新しいスイッチデバイスとなることが期待されます。
磁場でスピン波寿命が制御される様子(概念図)
東京大学物性研究所の大学院生長谷川舜介氏、菊地帆高氏(ともに研究当時、東京大学大学院新領域創成科学研究科博士過程)と益田隆嗣准教授の研究グループは、高エネルギー加速器研究機構(KEK)物質構造科学研究所の伊藤晋一教授と共同で、量子磁性体(注1)RbFeCl3のスピン波(注2)寿命を磁場により制御することに成功しました。
スピン流(注3)は絶縁体でも存在し、電荷の移動を伴わないためエネルギー損失のない流れとして注目されています。スピン流をエレクトロニクスのように利用するには、スピン波の安定性の制御が有効です。
研究グループは、スピン波の安定性、スピン間の相互作用の強さ、磁性体の基本的性質をミクロなレベルで理解するため、中性子散乱(注4)を用いて量子磁性体RbFeCl3 を詳細に調べました。これまでは、個々の量子磁性体において、スピン波の安定性の研究がなされていました。本研究では、RbFeCl3という量子磁性体に着目し、磁場中でスペクトル輝線(モード)がどのように変化するか調べました。その結果、磁場がない状態ではシャープなモード(長寿命)が磁場を加えることでよりブロード(短寿命)になり、さらに強い磁場を加えると再びシャープ(長寿命)になることを見出しました。つまり、量子磁性体のスピン波寿命が磁場で制御可能であることが実証されました。量子磁性体のスピン波寿命制御を活用することで、次世代電子デバイスへの応用が期待されているスピン流制御の新しいスイッチング機構となり得ます。
本成果は、英国科学雑誌『Nature Communications』の1 月11 日付オンライン版に掲載されました。
量子磁性体のスピンの運動状態は、数多くのスピンの集団運動を波として捉える"スピン波"、あるいは"マグノン(注5)"によって理解されます。これは、古典力学の問題で、バネにつながれた多数の質点から構成される調和振動子の運動を、特定の振動数と波長で特徴づけられる"振動モード"によって理解するのと同じです。振動モードを調べることでバネ定数が分かるように、スピン波やマグノンを調べることで、スピン間の相互作用の強さを調べることができ、量子磁性体の基本的性質をミクロなレベルで理解することができます。
また、調和振動子を水の中に入れると、粘性抵抗のためにエネルギーが散逸し振動は徐々に弱くなっていきます。同様に、物質中のスピン波も、周囲から強い抵抗を受ける環境下におかれると、徐々に弱くなります。これまでの研究では、個々の物質でスピン波がどのように安定に存在しているか、あるいは不安定となっているかについて、数多く調べられてきました。しかし、1つの物質においてスピン波の安定性を外部から制御する試みは行われていませんでした。
研究グループは、大強度陽子加速器施設J-PARC(注6)物質・生命科学実験施設MLF のHRC高分解能チョッパー分光器、日本原子力研究開発機構(JAEA)研究用原子炉JRR-3 のHER 分光器、および米国オークリッジ国立研究所のHYSPEC 分光器を用いて、量子磁性体RbFeCl3のスピン波をさまざまな磁場下で測定しました。
スピン波やマグノンを観測するためには、中性子散乱を用いることが効果的です。磁性体で散乱された中性子の運動を分析すること(つまりスペクトル解析すること)により、磁性体内部のスピンの運動状態を調べることが出来るからです。また、スペクトルの輝線のシャープさを測定することで、運動状態の寿命を見積もることが出来ます。輝線がシャープであるということは、長時間そのエネルギーでスピン波が運動し続けることができることを意味し、ブロードであるということは、短時間でエネルギーが散逸しスピン波は消えてしまうことを意味します。
図1a-f に、さまざまな磁場下で測定されたRbFeCl3の中性子スペクトルを示します。横軸は波数、縦軸はエネルギーとなっています。高強度の輝線が、観測されたスピン波です。0 T(テスラ、磁場の強さの単位)ではスピン波のスペクトル輝線(モード)の数は少ないのですが、磁場下ではZeeman 分裂(注7)を起こしモードが増え、高磁場ではより複雑となる様子が分かります。ここで、h = 0.5 の波数(図1左実験図Γ 点)近傍の赤矢印で示されたスペクトルに着目します。0 T で1本であったモードが1 T で分裂し、2 T までは明瞭に観測されています。しかし3 T では、本来モードが存在するであろう2 meV(ミリ電子ボルト、エネルギーの単位)近傍でモードは非常にブロードとなり、スピン波は不安定化し寿命が短くなっていることが分かります。さらに4 T に印加すると、ブロードな強度の下に、白矢印で示されたシャープなモードが出現します。5 T ではより明瞭になり寿命は長くなります。このように、磁場印加によりスピン波の寿命を制御することに成功しました。5 T の2 meV 近傍のモードの形状は、低磁場から推察すると、もう少し曲率の小さい曲線になりそうなところですが、実際には曲率が大きくほぼフラットな曲線となっています。またエネルギー的に下に押し下げられているようにも見えます。
図1:a-f 磁場下のRbFeCl3の中性子スペクトル。g-l 計算された2 マグノン状態密度。白実線と赤実線は計算されたスピン波モード
なぜスピン波の寿命は磁場により制御されたのでしょうか?先の例えに用いた水中の調和振動子では、水の粘性抵抗が振動の減衰の原因です。スピン波では、水に相当するものが2マグノン連続励起(注8)とよばれるものであり、スピン波と2 マグノン連続励起の相互作用が粘性抵抗になります。過去の研究成果から、この相互作用が弱い場合にはスピン波のモードは連続励起の中で不安定化すること、また、連続励起の状態密度が大きいとより不安定化しやすいことが知られています。また、相互作用が強い場合には、スピン波のモードが2 マグノン連続励起領域から押し出されて安定化することも知られています。
そこで、RbFeCl3の磁場下2 マグノン連続励起の状態密度を、相互作用を無視した場合について計算したところ、図1g-l のようになりました。黄色は、2 マグノン連続励起の状態密度が大きな領域を示しています。白い実線で示されたスピン波モードと連続励起の関係を見ると、0 T では離れていますが、磁場を印加していくと僅かに近づいていきます。スピン波モードのエネルギーにおける2 マグノン状態密度は高くなっており、これによりスピン波は不安定化していると考えられます。また、スピン波と2 マグノン連続励起の相互作用を磁場に対してプロットすると、図2 の黒いダイヤに示されるように単調増加していることが分かりました。スピン波のエネルギーの計算値と実測値の差を磁場に対して赤い四角でプロットすると、2 T までは計算値と実測値は一致するものの、3 T 以上では実測値が計算値よりも小さくなっていることが分かりました。このことから、磁場増大によりスピン波と連続励起の相互作用が徐々に大きくなり、3 T 以上で臨界値を超えることでスピン波のエネルギーは下に押し下げられ、これに伴いスピン波の寿命は延びたと考えられます。
図2:スピン波と2 マグノン連続励起の相互作用の磁場依存性(黒ダイヤ)と、スピン波エネルギーの実測値と計算値の差(赤四角)
スピン波はスピン流を運ぶ準粒子の一つです。スピン波スピン流は絶縁体でも存在するエネルギー損失のない流れとして注目されています。本研究では、スピン波寿命が磁場により制御可能であることが実証されました。
将来的に、室温程度のエネルギーのスピン波寿命を磁場制御可能な量子磁性体が見つかれば、スピン流を制御するスイッチデバイスとなり得ます。より近い視点からは、中性子分光器の進歩により、スピン波寿命の磁場制御の研究は、今後ますます盛んになると期待されます。
雑誌 | Nature Communications |
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題名 | Field Control of Quasiparticle Decay in a Quantum Antiferromagnet |
著者 | Shunsuke Hasegawa, Hodaka Kikuchi, Shinichiro Asai, Zijun Wei, Barry Winn, Gabriele Sala, Shinichi Itoh, Takatsugu Masuda* |
DOI | 10.1038/s41467-023-44435-0 |
本研究は、科研費「国際共同研究加速基金(課題番号:19KK0069)」、「挑戦的研究(萌芽)(課題番号:20K20896)」、「基盤研究(A)(課題番号:21H04441)」の支援により実施されました。
(注1)量子磁性体
スピン(電子や原子核のもつ最も小さな磁気)の大きさが1/2 や1 など小さく、量子性の強い磁性体のこと。
(注2)スピン波
物質中のスピンの集団運動状態のこと。
(注3)スピン流
物質中のスピンの流れのこと。例えば、電流は電荷の流れであり、同様にスピン流はスピンの流れである。
(注4)中性子散乱
中性子をプローブとして物質の静的・動的構造を調べる実験手法のこと。
(注5)マグノン
スピン波を量子化した状態のこと。スピン波自体はいくつもの独立したスピンの動きだが、それらが強く作用しあい、一つの粒子のように振る舞うため、まとめて一つのものとして扱うことができる状態。
(注6)大強度陽子加速器施設J-PARC
高エネルギー加速器研究機構と日本原子力研究開発機構が茨城県東海村で共同運営している大型研究施設。素粒子物理学、原子核物理学、物性物理学、化学、材料科学、生物学などの学術的な研究から産業分野への応用研究まで、広範囲の分野での世界最先端の研究が行われている。J-PARC 内の物質・生命科学実験施設では、世界最高強度のミュオン及び中性子ビームを用いた研究が行われており、世界中から研究者が集まる。
(注7)Zeeman 分裂
ゼロ磁場では上向きスピン状態と下向きスピン状態のエネルギーが同じであるが、磁場下ではこれらのエネルギーに差が生じる現象のこと。
(注8)2 マグノン連続励起
2 つのマグノンが結合した状態のこと。
高エネルギー加速器研究機構
J-PARCセンター
東海国立大学機構 名古屋大学
東京大学 大学院理学系研究科
- Question -
✣ ヘリウム原子の持つ2つの電子のうち1つを電子に似た素粒子であるミュオンに置き換えると、ミュオニックヘリウム原子と呼ばれる特殊な原子を生成できます。様々な周波数のマイクロ波とミュオニックヘリウム原子の反応を精密に調べると、ミュオンの質量の決定や、「CPT定理」と呼ばれる物理学の根幹をなす法則の検証ができます。しかしそのためにはこれまでの測定精度を100倍以上改善する必要があります。
- Findings -
✣ J-PARC MUSE Dラインを使用した実験によって、基底状態のミュオニックヘリウム原子のエネルギー構造についての測定精度を世界記録から1.5倍更新しました。この結果は我々が、J-PARCでミュオニックヘリウム原子のエネルギー構造を測定する手法を確立したことを意味します。
- Meaning -
✣ 今回の手法は近年運用を開始した、Dラインの約10倍のビーム強度を持つHラインでも使用可能です。今回の結果から、Hラインを使用した実験で物理学の根幹をなす法則を検証する見通しが立ちました。
図1:J-PARC MLF MUSEのD2実験エリアに設置された実験装置
図2:組み立て中の実験装置を真上から見た図
J-PARCの施設を使用し、ミュオニックヘリウム原子のエネルギー構造の測定精度を世界記録から1.5倍向上しました。この手法はビーム強度がより高く超伝導磁石を使用可能なラインでも使用でき、物理学の根幹をなす法則の検証やミュオン質量の決定が期待できます。
ヘリウム原子の持つ2つの電子のうち1つをミュオン※1に置き換えたミュオニックヘリウム原子は、自然界に存在しない特殊な原子です。ミュオニックヘリウム原子の超微細構造※2を精密に測定することで、負の電荷を持つミュオンの質量の決定や、素粒子基礎理論の検証が可能です。ミュオニックヘリウム原子の超微細構造は1980年代にスイスのポール・シェラー研究所とアメリカのロスアラモス国立研究所でそれぞれ測定されて以降、これまで測定されていませんでした。
今回我々は、茨城県東海村にある大強度陽子加速器施設(J-PARC ※3)物質・生命科学実験施設(MLF)のミュオン科学実験施設(MUSE)Dラインを使ってミュオニックヘリウム原子の超微細構造を、現在の世界記録の1.5倍の精度で測定しました。この結果は我々がパルスミュオンを利用した高精度な測定手法を世界で初めて確立したことを意味します。この手法はDラインの約10倍のビーム強度を持つHラインでも使用可能であり、超微細構造の測定精度はビーム強度と測定時間によって向上することから、今回の成果によって測定精度をさらに100倍向上し、負の電荷を持つミュオンの質量をより正確に決定するとともに、他の実験結果と組み合わせて物理学の根幹をなす法則「CPT定理※4」を検証する見通しが立ったと言えます。
※1.ミュオン
素粒子の一種で、電子に似た性質を持つが、電子の約200倍の質量を持つ粒子。正の電荷をもつものと負の電荷を持つものの両方が存在する。私たちの身の回りに自然に存在していて、宇宙線として宇宙から地球に降り注いでいる。ただし、非常に短い時間(約2マイクロ秒)で崩壊してしまう。電子が原子核の周りを回っているのと同様に、ミュオンも原子核の周りを回ることができる。負電荷のミュオンが電子の代わりに原子核の周りを回っている原子は「ミュオニック原子」と呼ばれ、ミュオンが電子より重いために普通の原子と異なる特性を持つ。
※2. 超微細構造
原子の周りの電子が持ちうるエネルギーは決まっているが、同じ軌道にある電子でもわずかに異なるエネルギーを持つことがある。これは電子の持つ「スピン」と原子核のもつ磁場の相互作用により生じるもので、この微細なエネルギー構造を「微細構造」と呼ぶ。微細構造をさらに詳しくみると、電子のスピンと原子核のスピンの相互作用によって生じるより細かなエネルギー構造が存在する。これを「超微細構造」と呼ぶ。超微細構造は、現在1秒を定義しているセシウム原子時計の原理にも利用されている。
※3. J-PARC
高エネルギー加速器研究機構(KEK)と日本原子力研究開発機構(JAEA)が茨城県東海村で共同運営している大型研究施設で、素粒子物理学、原子核物理学、物性物理学、化学、材料科学、生物学などの学術的な研究から産業分野への応用研究まで、広範囲の分野での世界最先端の研究が行われている。
※4.CPT定理
物質と反物質を入れ替える「C変換 (荷電共役変換)」、左右を反転させる「P反転 (パリティ反転)」、時間を逆に進める「T反転 (時間反転)」という3つの操作を同時に行った場合、すべての物理現象は変化しないという定理。この場合、どんな粒子とその反粒子も同じ質量、同じ磁気モーメント(符号は逆)、同じ寿命を持たなければならない。
高エネルギー加速器研究機構 物質構造科学研究所(IMSS) ミュオン科学研究系 |
atrick Strasser講師, 岩井 遼斗 特別研究員, 神田 聡太郎 助教, 西村 昇一郎 特別助教, 下村 浩一郎 教授 |
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名古屋大学 理学部物理学科 素粒子物性研究室(Φ研) | 福村 省三(大学院生), 河村 しほり(大学院生), 北口 雅暁 准教授, 清水 裕彦 教授, 多田 紘規(大学院生) |
東京大学 大学院理学系研究科 | 鳥居 寛之 准教授 | 東京大学 大学院総合文化系研究科 | 瀬尾 俊(大学院生) |
科学的進歩を達成し、刺激的で新しいフロンティアに到達するのに、優れたチームワーク以上のものはありません。
ミュオニックヘリウム原子の超微細構造は、精密に測定することで基本物理定数※5の一つである負の電荷を持ったミュオンの質量を決定できるほか、理論的な予測値と比較することで現在の素粒子物理学を検証できます。しかし1980年代に測定されて以降、これまでミュオニックヘリウム原子の超微細構造を精密に測定した例はありませんでした。
これに対し近年J-PARCで進行しているMuSEUM実験グループ※6の技術を応用すれば、ミュオニックヘリウム原子の超微細構造を最大で現在の100倍近い精度で測定できる可能性があるとわかり、この研究が始まりました。
※5.基本物理定数
自然界の基本的な性質を表し、宇宙全体で変わらないと考えられている普遍的な定数。
※6.MuSEUM実験グループ
プラスの電荷を持つミュオンの周りを電子が回っている、ミュオニウムという特殊な原子のエネルギー構造を調べている実験グループ。ミュオニウムも自然界には存在しない。
図3:ミュオニウム原子(左)とミュオニックヘリウム原子(右)の模式図
ミュオニックヘリウム原子を利用して負電荷のミュオンの質量を精密に決定すれば、正に荷電したミューオン(反粒子)の質量に関する他の実験結果と組み合わせて物理学の根幹をなす法則「CPT定理」の検証が可能であることに着目しました。CPT定理は、現代の物理学の枠組みでは厳密に成り立っているとされています。この定理と密接に関連する「CP対称性」はわずかに破れていることが知られており、私たちの宇宙には物質が豊富にあるにもかかわらず、反物質がほとんど見つからない理由の説明につながると考えられています。
加えて実験に使用したガスにも特徴があります。ミュオニックヘリウム原子を生成するためには、ヘリウム原子の他にイオン化しやすいガスが必要となります。これは、ヘリウム原子に負のミュオンが捕獲されるとすぐに2つの電子を放出し、ミュオニックヘリウムイオンとなってしまうためです。1980年代の実験では貴ガスの1種のキセノンが使用されていました。
今回我々はメタンを使用したミュオニックヘリウム原子の生成例と、キセノンに比べてメタンが安価かつミュオンを吸収しない点に着目し、メタンを使用しました。
図4:J-PARCや他の研究施設で進行中の実験と本研究の関連を表した図
ミュオニックヘリウム原子の超微細構造の測定精度は、主にミュオニックヘリウム原子の数で決まります。一方でミュオンや、ミュオンを含んだ原子であるミュオニックヘリウム原子は約2マイクロ秒で崩壊してしまうため、基本的には使用するミュオンビームの強度と測定時間によって測定精度が決まってしまいます。今回の総実験期間の約15日の中でできる限り測定精度を向上するために、測定条件の最適化(図5)やより良い解析方法の検討に注力しました。具体的には、ヘリウムに2%だけメタンを混合したガスを用いて、3つの異なる圧力でミュオニックヘリウムの超微細構造共鳴曲線を測定(図6)し、ゼロ圧力への外挿により、ミュオニックヘリウム原子の超微細構造周波数を決定しました(図7)。
図5:測定装置の概略図。ミュオンビームのエネルギーや入力マイクロ波の強度、装置の構造などを最適化した。
図6:ミュオニックヘリウム原子の超微細構造共鳴曲線。マイクロ波のエネルギーと超微細構造の値が近いほど、信号強度は大きい。それぞれ(a) 3.0、(b) 4.0、(c) 10.4気圧での測定結果。
図7:ガスの圧力とミュオニックヘリウム原子の超微細構造が一次関数で表される関係を持つ場合の、真空中での超微細構造の値を求めた結果。赤い点は各圧力での測定結果で、赤の実線は各点の関係の推定結果。比較のために1980年代の2つの実験結果(緑の点と青の点)と、1982年の測定でのガスの圧力と超微細構造の関係の推定結果(青の波線)も示している。
今回我々は、世界最高の測定精度でミュオニックヘリウム原子の超微細構造を測定し、パルスミュオンを使った測定技術を世界で初めて確立しました。また我々の技術とJ-PARC MLF MUSE Hラインの大強度ミュオンビームを利用すれば、ミュオニックヘリウム原子の超微細構造の測定精度を現在の100倍まで向上可能であることが明らかとなりました。現在はさらに測定精度を向上させるために更なる技術開発に取り組んでいます。
負の電荷を持つミュオンはプラスの電荷を持つミュオンに比べ質量などの測定精度が悪く、電荷の違いによる性質の違いがあまりよくわかっていませんでした。今回の実験を元にミュオニックヘリウム原子の超微細構造の精密測定を進めていけば、この電荷による性質の違い、すなわち粒子と反粒子の性質の違いが明らかになる可能性があります。
加えて、現在は3つ以上の粒子から構成される複雑な原子についての理論はあまり発展していません。原子核と電子、ミュオンという3つの粒子で構成されるミュオニックヘリウム原子を精密に測定することは、複雑な状態に対しての理論の発展を大きく促すきっかけになると期待できます。
本研究はJSPS 科研費21H04481の助成を受けたものです。またJ-PARC MLFでの実験は実験課題 (課題番号 2020B0333、2021B0169、2022A0159)として行われました。
"Improved Measurements of Muonic Helium Ground-State Hyperfine Structure at a Near-Zero Magnetic Field", Physical Review Letters 131, 253003 (2023).
神奈川大学
大阪大学
東京理科大学
大学共同利用機関法人 高エネルギー加速器研究機構
国立研究開発法人日本原子力研究開発機構
J-PARCセンター
- 課題 -
✣ 水とテトラヒドロフラン(THF)の混合溶媒中で疎水性有機分子が集合体を形成することが広く知られています。このような溶液の水とTHFの比率を変化させると、溶液の性質が変化することがしばしば観測されています。しかしながら、集合状態がどのように変化し、性質の変化に影響を与えるのかについての詳細は明確ではありませんでした。
- 成果 -
✣ 今回、水-THF混合溶媒中における疎水性の発光分子について、含水率を変化させて様々な測定を行いました。その結果、溶媒中の水の体積分率が約50%では分子が「緩い集合体」を形成し、水の割合が増加するにしたがって「密な集合体」へと変化することを明らかにしました。また、このような集合状態変化と発光強度変化との対応も明らかにしました。
- 展望 -
✣ 今回得られた知見は、有機分子の集合体形成制御技術への応用が想定されます。具体的には、有機ELや有機レーザーなどの表示・照明デバイスの効率向上や、薬物輸送システムの効率化による薬効の改善など、広汎な応用が期待できます。
神奈川大学理学部 辻勇人教授らの研究グループは、大阪大学大学院理学研究科高分子科学専攻 中畑雅樹助教、東京理科大学理学部第一部化学科 菱田真史准教授、大学共同利用機関法人高エネルギー加速器研究機構物質構造科学研究所 瀬戸秀紀教授、国立研究開発法人日本原子力研究開発機構物質科学研究センター 元川竜平マネージャーとの共同研究により、水とテトラヒドロフラン(THF)の混合溶媒中に独自開発の疎水性発光分子が分散した系について様々な測定を行い、溶媒中の水の割合を変化させると発光分子を含む集合体のサイズと集合状態が変化し、それが発光強度の変化と相関することを示しました。
今回得られた知見に基づいて疎水性分子の集合状態を自在に制御できれば、有機ELや有機レーザー等の発光デバイスの効率向上や、薬物送達(ドラッグデリバリー)システムなどへの応用が期待できます。
本研究成果は、2023年12月7日(米国時間)に米国化学会の学術誌「The Journal of Physical Chemistry Letters」誌にてオンライン先行公開されました。(https://pubs.acs.org/doi/10.1021/acs.jpclett.3c02882)。
本研究は、文部科学省科研費補助金 新学術領域研究 水圏機能材料:環境に調和・応答するマテリアル構築学の創成「水圏機能材料創製のための機能分子の精密合成」「水圏機能材料の先端構造・状態解析」「水圏機能材料の電子・イオン機能開拓」、国際共同研究加速基金(海外連携研究)などにより実施されました。
「水と油」と言われるように、油(脂)の性質が強い有機化合物は一般に水には溶けません。このような化合物は「疎水性」であると表現されます。一方で、水になじみやすい「親水性」の有機化合物も多く知られています。テトラヒドロフラン(THF)という常温で液体の有機化合物は、水と任意の割合で混じることが知られています。このTHFが水とどのように混じっているかについて、過去50年に亘って多くの科学者が研究しています。水とTHFを混ぜると、私たちの目には均一に混じっているように見えるのですが、これまでの研究の結果から、実はミクロスケールや、それよりも少し小さいスケール(メゾスコピックスケール)で見ると水とTHFが分離していたり、逆に、水分子とTHF分子が集合してクラスターと呼ばれる構造体を形成することなどがわかってきています。水とTHFの混合比によっても、分離の割合や構造体の形状・サイズなどは大きく変化します。
また、THFは他の有機化合物を溶かすための溶媒(溶剤)としても広く使われており、多くの種類の疎水性有機化合物がTHFに溶解することも知られています。それでは、水に全く溶けない疎水性の有機化合物(溶質)のTHF溶液に水を加えるとどうなるでしょうか?溶質の濃度が、溶媒に比べて重量比で1/1000(0.1%)ぐらいかそれ以下のごく希薄な条件では、見た目には均一な状態を保つものが意外に多く存在します。すなわち、THFは水と混ざるという特徴を持ちながら、それ自体は疎水性の化合物と混ざります。さらに、疎水性の有機化合物であってもTHFに溶かせば水と混ざる、というユニークな特徴をもっています。
そして、このような水―THF混合溶媒中では、水とTHFの混合比を変えると、溶質分子に由来する性質が変化する例も数多く報告されています。性質変化の中でも、発光性を持つ溶質を用いた際に見られる凝集起因消光(ACQ)や凝集誘起発光(AIE)と呼ばれる、分子集合状態に応じた発光特性の変化が注目されています。前者は、分子がギュッと集まった(凝集した)際に発光強度が減少する現象で、古くから知られています。後者は逆に、凝集によって発光強度が増加する現象です。2000年頃にAIEを示す分子の設計指針が提示されて以来、AIE分子の開発が世界的に行われています。水―THF中で疎水性の有機分子を凝集させるためには、水の含有量を増やせば良いことは経験上知られていますが、水含有量と有機分子の凝集状態の詳細については明確ではありませんでした。
そこで本研究グループは、辻教授らが以前に開発したCz-COPV2-BTz-COPV2-Cz(BTzと省略する)という発光分子を用いて、蛍光スペクトル測定と蛍光顕微鏡観察に加えて、動的光散乱(DLS)、中性子小角散乱(SANS)、広角X線散乱(WAXS)による測定を行い、水含有量と有機分子の凝集状態の詳細、さらには発光特性変化との相関について研究を行いました。BTz分子は、水には全く溶けませんがTHFには良く溶け、水―THF混合溶媒中でも比較的安定な分散状態を保ちます。また、ACQを示しますが、水―THFのあらゆる混合比において発光効率が十分に高いため、発光の観察が容易です。さらに、発光波長が分子周囲の環境(極性)に敏感であるため、環境変化を発光波長変化として観測しやすいという特長も有します。これらのことから、今回の研究に適した発光色素として選択しました。SANS測定は日本原子力研究開発機構(JAEA)の研究用原子炉(JRR-3)に設置されている装置(SANS-J)にて、WAXS測定は高エネルギー加速器研究機構(KEK)のフォトンファクトリーのビームライン(BL-10C)を用いてそれぞれ行いました。
図1に、水―THF混合溶媒中におけるBTzの蛍光顕微鏡観察像を示します。水の体積分率(fw)を0%から10%ずつ段階的に増加させると、fw = 30%でBTz分子を含む集合体が輝点として星空のように浮かび上がりました。この輝点は、fw = 60%までは観測できますが、fw = 70%から徐々にぼんやりしてきます。これは、水の体積分率を60%より増やしていくと輝点の粒径が減少することを示しています。
輝点に相当する集合体の構造やサイズが水の体積分率によってどのように変化するかを詳細に知るために上記の各種測定を行いました。得られた結果を総合して推測した模式図を図2に示します。①の水0%(THF100%)から水の割合を増やすと、水をいやがる発光分子は②のように自分たちで集合し始めます。図1の輝点形成段階に相当します。水の分率が増加すると、③のように「背景」が水に入れ替わり、fw = 50%の時点では発光分子とTHFを主成分とする階層構造を形成していることがSANSとDLSから示唆されました。この際、発光分子同士の距離が若干離れている「緩い集合体」を形成していることが、WAXS測定と蛍光測定から明らかになっています。④fw = 60%以上の水が多い領域では、さらに水の割合を増やすと「集合体」のサイズが減少します。このサイズ減少は、水に混じりやすいTHF分子が集合体から水中に拡散することに起因すると考えられます。その結果、水に溶けない溶質分子が集合体内で濃縮され、発光分子間の距離が縮まった「密な集合体」へと変化することで凝集起因消光(ACQ)を示すに至るというメカニズムが明らかになりました。
今回の研究からは、水―THF混合溶媒中における疎水性有機分子の集合体構造や含水率変化に伴う構造変化ならびに集合体の構造変化と物性変化の関連性を明確にしたという基礎科学的な知見が得られました。また、得られた知見は有機分子の集合体形成を自在に制御する技術への応用も想定されます。例えば、有機ELや有機レーザーなどの表示・照明デバイスの効率向上や、薬物輸送システムの効率化による薬効の改善など、広汎な応用が期待されます。
図1 (a) 発光分子Cz-COPV2-BTz-COPV2-Czの分子構造、(b) 水-THF中におけるCz-COPV2-BTz-COPV2-Czの蛍光顕微鏡像(露光時間0.25秒)。fwは水の体積比率(vol%)を示す。黄色い輝点はCz-COPV2-BTz-COPV2-Czを含む集合体。
図2. 各種測定から推測した発光分子の集合状態の水体積比率依存性に関する模式図。
題 名 | Water-fraction Dependence of the Aggregation Behavior of Hydrophobic Fluorescent Solutes in Water-tetrahydrofuran(水―THF中において疎水性の蛍光性溶質が示す凝集挙動の含水率依存性) |
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著者名 | Hayato Tsuji, Masaki Nakahata, Mafumi Hishida, Hideki Seto, Ryuhei Motokawa, Takeru Inoue, Yasunobu Egawa |
掲載誌 | The Journal of Physical Chemistry Letters (DOI: 10.1021/acs.jpclett.3c02882) |
国立研究開発法人日本原子力研究開発機構
J-PARCセンター
国立大学法人豊橋技術科学大学
地方独立行政法人東京都立産業技術研究センター
明治大学
✣ 本研究では、天然構造を持つセルロースナノファイバーとごく低濃度の水酸化ナトリウムを混ぜて、凍らせて、クエン酸を加えて、溶かすだけで、高強度多孔質ゲル材料ができることを発見しました。
✣ 以前より研究グループでは、反応性の高いカルボキシメチルセルロースをつかったゲル材料を開発してきました。しかし、木材から抽出した天然構造を持つセルロースは反応性が低いためにゲル材料化できず、原料が限られていることが課題でした。
✣ 本成果により、天然構造を持つセルロースを原料にして、簡易に高強度多孔質ゲル材料を合成する手法を新たに発見しました。これにより原料の選択肢が飛躍的に広がりました。
✣ セルロースと水酸化ナトリウムを混ぜた溶液を凍結させると、セルロースの結晶相転移がおこることを発見し、高強度化につながるメカニズムを明らかにしました。
✣ 天然構造をもつセルロースを原料にして開発した本ゲル材料は、今後、金属や二酸化炭素の回収材などへも応用可能な広い機能性をもちます。
国立研究開発法人日本原子力研究開発機構(理事長 小口正範)物質科学研究センターの関根由莉奈研究副主幹、南川卓也研究員、廣井孝介研究副主幹、杉田剛研究員、柴山由樹博士研究員、国立大学法人豊橋技術科学大学(学長 寺嶋一彦)の大場洋次郎准教授、地方独立行政法人東京都立産業技術研究センター(理事長 黒部篤)の永川栄泰主任研究員、明治大学(学長 大六野耕作)理工学部応用化学科の深澤倫子教授の研究グループは、水溶液の凍結時に氷結晶間に生じるナノ空間内で、セルロース[1]の結晶相転移[2]が起きることを発見しました。さらに、その構造変化を利用することで、天然構造を持つセルロースを原料にして、簡易な方法で高強度セルロース多孔質ゲル材料[3]を実現しました。
セルロースは、木材から抽出される再生可能素材[4]です。近年、このセルロースの活用に関心が高まっています。セルロースは、化学的または物理的に加工を施すことで化成品や衣料として古くから利用されています。天然の木が持つ高強度性は、ミクロな領域でセルロース分子が配列した階層構造に起因します。すなわち、セルロース分子の構造制御が高強度性の発現や材料化への鍵となります。
そこで我々は、水溶液の凍結時に生じる氷結晶間に囲まれたナノ空間の利用に着目しました。セルロース溶液を凍らせると、セルロース分子は氷結晶に取り込まれず、氷結晶間にナノメートルサイズの濃厚なセルロースの凝集層ができあがります。この凝集層では分子同士がぎゅっと近接して存在するため、通常では見られないような分子の配列がみられます。今までにも本研究グループは、この凍結時に現れる未知のナノ構造に着目してさまざまな材料開発や構造解析を進めてきました。本研究においても、氷結晶間の凝集層を利用した材料開発を試みました。
天然のセルロースと同じ構造を持つセルロースナノファイバー[5]を原料にして、低濃度の水酸化ナトリウムを含む条件で凍らせて、クエン酸[6]を加えて、溶かすだけで、高強度の構造を形成することを発見しました。凍結により、セルロースの結晶構造が相転移して高強度化することも明らかにしました。この構造は氷が溶けた後も維持され、高い圧縮復元性を示すセルロース多孔質ゲル材料が実現しました。
このセルロース多孔質ゲル材料は、95%以上の空隙を持つ高い多孔性をもち、その隙間に水や物質などを出し入れすることに優れた性質を示しました。例えば、空隙に水やガスを流し、骨格部分で金属イオンや二酸化炭素など吸着して回収するような材料にも応用できます。さらに、加圧により変形しますが、圧力を解放すると瞬時に水を吸い込んで元の形に戻る圧縮復元性を示し、実用化に足る強度も持ちます。
氷結晶間のナノ空間という、未知の反応場においてセルロース分子の構造制御が可能であることを発見し、さらに、その現象を利用して新材料の開発に成功しました。自然由来の再生可能素材と凍結を利用した、新しい材料としての応用が期待されます。
本成果は、国際学術誌「Carbohydrate Polymers」のオンライン公開版(12月1日(12:00))に掲載されます。
持続可能社会実現のために、再生可能素材であるセルロースなどを活用した材料開発にますます関心が高まっています。セルロースは植物の主成分である天然の高分子であり、ナノからマイクロメートル領域で多様な構造を形成する性質を持ちます。自然界の葉や木はセルロースを主成分にしますが、セルロースの階層的な構造が異なることにも起因して、異なる強度やしなやかさを持ちます。このようにセルロースは構造を制御することで多様な機能を発現できる可能性を持つ優れた天然素材です。
今までにもセルロースは強アルカリ性薬品による溶解や化学反応などを利用した加工により、化成品や衣料として私たちの生活に多く利用されてきました。しかし、より簡便かつエネルギー消費が少ないセルロースの加工法が求められています。
本研究グループは、今までにセルロースを化学的に加工した、カルボキシメチルセルロースナノファイバー(CMCF)[7]を原料にして多孔質ゲル材料を合成する手法を開発してきました。しかし、天然状態の構造を持つセルロースナノファイバーはCMCFに比べて反応性が低く、今までの方法では実用化に足る強度を持つゲル材料はできていません。
このような背景から、天然状態である水酸基[8]のみを持つセルロースナノファイバーを原料にして、省エネルギーかつ簡易な方法で材料化することを目指しました。天然構造を持つセルロースを原料にして多孔質ゲル材料ができれば、セルロース利用の飛躍的な広がりが期待できます。
水の凍結時に生じる氷結晶と溶質の相分離現象に着目して材料開発を行いました。水溶液を凍結させると氷結晶と濃厚な溶質からできる凍結凝集層の相分離現象(凍結凝集現象)が見られます。この凍結凝集層では、溶質分子同士がぎゅっと制限空間に押し込められるため、通常では見られないような分子の配列が実現します。
低濃度の水酸化ナトリウム(NaOH)[9](0.2モル/リットル)を混ぜたセルロースナノファイバーを凍らせて、その凍結体にクエン酸溶液を混ぜて、溶かしたところ、圧縮してもつぶれない強さのゼリー状の物質(セルロースゲル)ができました(図1上)。このセルロースゲルは、圧縮負荷をかけると水を放出しながら10分の1以下の厚みにつぶれるほどの柔らかさを持ちつつ、圧縮負荷を除荷すると同時に再び吸水して元どおりの形状に戻る高い復元性を示しました。クエン酸を加えずに、セルロースナノファイバーと水酸化ナトリウムを混ぜた溶液を凍らせて、溶かしたところ、セルロースゲルが形成しましたが、この物質は圧縮するとつぶれてしまいました(図1中央)。単にセルロースナノファイバーを凍結させて、溶かしてみたところ、ゲル状の構造体ができましたが触るとすぐに壊れてしまいました(図1下)。
一連の実験から、"凍結"、"水酸化ナトリウム"、"クエン酸"により、従来にない強い三次元構造を持つセルロース多孔質ゲル材料ができることを発見しました。
図1 セルロースナノファイバーを原料に高強度セルロース多孔質ゲル材料が生成する条件
どのようなメカニズムで強いセルロースゲルができたのでしょう?まず、"凍結"と"水酸化ナトリウム"がセルロースの分子構造に及ぼす影響を調べるため、X線回折法[10]を使いました。X線回折法では物質内で分子が配列した結晶構造を調べることが可能です。原料に使用したセルロースナノファイバーは、セルロース分子が平行に配列した天然と同様のセルロースI [11]と呼ばれる構造を持っていることが分かりました。水酸化ナトリウムを混ぜた後に凍らせて、溶かしたセルロースゲルでは、セルロース分子が逆方向に配列して水素結合で繋がっている、セルロースII [12]と呼ばれるより強固で安定な結晶構造に変化していることが分かりました。この結果から、"凍結"と"水酸化ナトリウム"により、セルロースの結晶構造が相転移したことを発見しました。この結晶相転移がゲルの高強度化に寄与したことが示されました。
次に、クエン酸を加えることでどのような変化が起こったのでしょうか?図1のように、水酸化ナトリウムを混ぜたセルロースナノファイバーを凍らせて、クエン酸を加えて、溶かす、という条件で、最も高強度なセルロース多孔質ゲルができます。 まず、"クエン酸"の影響をX線回折法で調べたところ、クエン酸を加えて形成したセルロースゲルもセルロースIIの結晶構造に相転移していることが分かりました。
では、図1のような、クエン酸の有無による圧縮強度の違いは何に起因するのでしょうか?赤外分光法[13]で調べたところ、クエン酸を加えたことで新たにカルボキシル基[14]が導入されていることが明らかになりました。水素結合を形成できるカルボキシル基の導入により、セルロースの水酸基(-OH)とカルボキシル基で水素結合が形成され、より高い強度が発現したと考えられます。
水酸化ナトリウムを混ぜたセルロースナノファイバーを凍らせた状態で光学顕微鏡により観察したところ、ナノメートルサイズのまだら構造を観察することができました(図2(a))。色が濃く見えている領域がセルロースの凍結凝集層です。この凍結凝集層では、セルロースナノファイバーと水酸化ナトリウムがぎゅっと凝集されている特殊な環境のため、セルロースIからセルロースIIへの結晶相転移が起こったと考えています。この凍結凝集層にクエン酸水溶液を注いだことで、クエン酸が浸透し、氷が存在する条件でもセルロースにカルボキシル基が導入されて強い水素結合ネットワークが形成されました(図2(b))。このような水素結合のネットワーク構造が高い圧縮復元性の発現に寄与したと考えています。
図2. (a) 水酸化ナトリウムを含むセルロースナノファイバーの凍結を顕微鏡観察した様子
(b) 凍結により高強度なセルロースナノファイバーの構造ができるメカニズム
今回の研究で実現したセルロース多孔質ゲル材料は、応用性の高い、いくつかの性質を持つことが分かりました。まず、セルロースナノファイバーと水酸化ナトリウムの混合物に活性炭やゼオライトなどの粉末体を混ぜ合わせ、凍らせて、クエン酸を加えて溶かすと、セルロース骨格に粉末体を安定に保持したゲル材料ができ、セルロースの自重の3倍ほどの粉末体を保持することが可能でした。粉末体を含んでも強い圧縮復元性や強度はほぼ変わりません。そのため、さまざまな粉末体を保持したセルロース多孔質ゲル材料に水やガスを流し、骨格部分で金属イオンや二酸化炭素など吸着して回収するような材料にも応用可能であることが示されました。
本研究グループでは、粘土粉末を含んだセルロース多孔質ゲルを作り、水から金属イオンを回収する吸着剤としての性能を調べました。鉛、銅、亜鉛イオンを含む溶液に作製したゲルを入れたところ、数分でほとんど全ての金属が吸着されました。取り出したゲルを加圧すれば、水だけ吐き出し、内部に金属が留まります。その後、金属を脱離する溶液に入れれば吸着した金属を回収することも可能です。以上のことから、今回開発したセルロース多孔質ゲル材料は、有害金属やガスを吸着して環境を浄化する吸着剤や金属イオン回収剤としても有用である可能性が高いことが分かりました。
水酸基のみを持つセルロースナノファイバーを原料にして、"凍結"、"低濃度の水酸化ナトリウム"、"クエン酸"という簡易で安全性の高い方法で、今までにない強固な三次元構造を持つセルロース多孔質ゲル材料を実現しました。氷結晶間に囲まれた制限空間におけるセルロース結晶の構造相転移現象を初めて発見しました。本研究では、未知な氷結晶間空間におけるセルロース結晶相の変化、という新しい科学的な発見と、セルロースを原料にした新材料の開発、のニつを実現しました。
昔から、セルロース繊維に大量の水酸化ナトリウム(3モル/リットル以上)を加えるとセルロースIからセルロースIIへの結晶相転移が起こり、光沢や柔軟性がある繊維が得られることが知られていました。今回、"凍結"を利用することで、従来と比べて1-15の水酸化ナトリウム濃度(0.2モル/リットル)で結晶相転移がはじめて観察されました。凍結凝集の利用によって発見された面白い現象です。
本研究で開発された、強固な三次元構造を持つセルロース多孔質ゲル材料は、95%以上の高い空隙率、高い圧縮強度、高い成形性、無害の性質を持ち、さらにセルロースの元来の性質による両親媒性[15]や生分解性[16]の性質も有しています。したがって、有害物質の吸着剤や医療材料への応用が期待されます。今後、セルロース分子の表面を利用した二酸化炭素回収材としての応用も期待されます。
各研究者の役割は以下のとおりです。
・関根(日本原子力研究開発機構):凍結を利用した高強度セルロース多孔質ゲルの合成にかかる実験のデザイン
・関根、南川、廣井、杉田、柴山(日本原子力研究開発機構)、大場(豊橋技術科学大学)、永川(東京都立産業技術研究センター)、深澤(明治大学):本研究にかかるデータの収集と分析
・関根、南川(日本原子力研究開発機構):凍結を利用した高強度セルロース多孔質ゲルの形成メカニズムについて理論に基づいた説明
本研究はJSPS科研費(「21K04949」、「21K07992」、「21H01151」、「22K05205」)、及びJAEA原科研ACCEL研究費の助成を受けたものです。
本研究は、2020年10月30日に発表した、「凍らせて、混ぜて、溶かすだけ 高い強度と成型性を持つ新しいゲル材料を開発」(https://www.jaea.go.jp/02/press2020/p20103003/)に続く研究成果となります。
雑誌名 | Carbohydrate Polymers |
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タイトル | Nanocellulose hydrogels formed via crystalline transformation from cellulose I to II and subsequent freeze cross-linking reaction |
著者名 | Yurina Sekine,1 Takuya Nankawa,2 Kosuke Hiroi,1,3 Yojiro Oba,4 Yoshiyasu Nagakawa,5 Tsuyoshi Sugita,1 Yuki Shibayama,1 Tomoko Ikeda-Fukazawa6 | 所属 | 1 日本原子力研究開発機構 物質科学研究センター、2 日本原子力研究開発機構 企画調整室、3 日本原子力研究開発機構 J-PARCセンター、4 豊橋技術科学大学、5 東京都立産業技術研究センター、6 明治大学 |
[1] セルロース
植物細胞壁、及び植物繊維の主成分で、地球上で最も多く存在する炭水化物である。衣料繊維や紙として古くから利用されている。また、化学的に加工することでニトロセルロースやカルボキシメチルセルロース、ヒドロキシプロピルセルロースなどとして応用されている。以前より、セルロースを高濃度の水酸化ナトリウム(3モル/リットル以上)で処理することにより結晶相を転移させて光沢のある繊維にする方法等、さまざまな加工技術が開発されている。(5%(1.3モル/リットル)以上の水酸化ナトリウムは日本の法律では劇物に指定されており、取り扱いが制限されている。)
[2] 結晶相転移
1つの結晶相から他の結晶相に転移すること。
[3] 多孔質ゲル材料
非常に多くの細孔を持ち、かつその細孔に多くの水を含む材料のこと。水を介してイオン、分子、細胞などを出し入れできることから、環境の浄化や有価物の回収を目的とした吸着剤や再生医療材料などに応用可能である。
[4] 再生可能素材
生産から廃棄まで環境に配慮した素材のこと。土に還る天然素材やリサイクル素材などがある。
[5] セルロースナノファイバー
植物繊維を物理的または化学的にほぐすことで得られる直径が3~100nmの繊維状のナノ素材。高強度、熱による膨張や収縮が少ないなどの特性を示すことから、新素材として注目されている。物理的にほぐしたセルロースナノファイバーは天然状態である水酸基のみから構成される構造を持つ。本研究では、ウォータージェットで物理的に木材パルプを解繊して得られたセルロースナノファイバー(製品名:WFo-10002(株式会社スギノマシン))を用いた。
[6] クエン酸
レモンやミカンなどに含まれる有機酸。水に溶けやすく、爽やかな酸味がある。清涼飲料や医薬品などに利用されている。
[7] カルボキシメチルセルロースナノファイバー(CMCF)
セルロースを化学反応させる工程を経て、ヒドロキシ基をカルボキシメチル基に置換したセルロースナノファイバーの一種。食品や化粧品の増粘剤として用いられる。
[8] 水酸基
-OHで表される一価の基。セルロース分子にも含まれる。
[9] 水酸化ナトリウム
NaOHで表される無機化合物。ナトリウムイオンと水酸化物イオンからなるイオン結晶で、アルカリ性試薬として広く工業に用いられる。5重量%を超える水溶液は劇物に指定されている。
[10] X線回折法
X線が結晶格子で回折を示す現象を利用して、物質の結晶構造を調べる方法のこと。結晶内部で原子がどのように配列しているかを知ることができる。
[11] セルロースI
天然に存在するセルロースが持つ結晶相。隣り合うセルロース分子鎖同士で分子鎖の向きが同じ形をしている。
[12] セルロースII
天然に存在するセルロースを強アルカリ性試薬などで溶解し、ふたたび再生させるとできるセルロースの結晶相。隣り合う分子鎖同士で分子鎖の向きが逆になっている。そしてセルロース分子間に水素結合が形成されている。セルロースIよりも熱力学的に安定な構造である。
[13] 外分光法
物質に赤外線を照射し、透過または反射した光を分光することで対象物の分子の振動などの情報を得る方法。この方法により、分子同士の結合の生成や分子表面の化学修飾状態を知ることができる。
[14] カルボキシル基
有機化合物の反応性官能基の1つで化学式-COOHで示される。この水素原子は水素イオンとして電離しやすく、酸性を示す。
[15] 両親媒性
1つの分子内に水になじむ親水性と油になじむ親油性の両方を持つことを示す。この性質により水中でも油中でもその物質を利用することができる。
[16] 生分解性
自然界に存在する微生物などによって無機物にまで分解される性質を示す。
東京大学
日本原子力研究開発機構
J-PARCセンター
高エネルギー加速器研究機構
科学技術振興機構 (JST)
✣ 世界最高水準の強靭 (じん) 性と弾性率を示す、硬いのに丈夫でフレキシブルなゲル電解質を開発しました。
✣ 従来のゲル電解質では硬さと強靭性にはトレードオフの関係がありましたが、本研究では、 (i) ナノ相分離による高弾性率化、 (ii) 伸長下での高分子結晶化による強靭化によって、硬さと強靭性の両立に成功しました。
✣ 本材料は充電池の短絡を防ぐために十分な硬さを有し、繰り返し変形に耐えられる強靭性も併せ持っていることから、フレキシブル電池の耐久性向上につながります。耐久性、柔軟性に優れた電池が実現すれば、肌や服に貼り付け可能なフレキシブルデバイスへの応用が期待されます。
硬さと丈夫さを兼ね備えたゲル電解質
東京大学物性研究所の橋本慧特任助教 (研究当時) と眞弓皓一准教授、同大学大学院新領域創成科学研究科の伊藤耕三教授らは、「硬くて丈夫な電池用ゲル電解質」を開発しました。フレキシブル電池に適用可能なゲル電解質 (注1) には、イオン伝導性に加えて、短絡の原因となる充放電時に生じる金属結晶の成長 (注2) を防ぐための硬さが必要です。また、繰り返しの曲げ変形に耐えられる強靭性も兼ね備える必要があります。従来材料では、硬さと靭性にはトレードオフの関係があり、この両立は難しいと考えられてきました。
本材料では、材料内部にミクロ相分離構造 (注3) を形成させることで、金属結晶の成長を防ぐのに十分な硬さを実現しました (図1左) 。さらに、曲げ伸ばしで大きな負荷がかかると、高分子鎖が結晶化して硬くなることで、固体・半固体・有機無機複合ゲル電解質の中でも世界最高水準の高い強靭性を達成しました (図1右) 。硬さと強靭性を併せ持つゲル電解質を電解質膜として用いることで、フレキシブル電池の耐久性向上につながることが期待されます。
本成果は、米国の科学雑誌「Science Advances」オンライン版2023年11月24日 (現地時間) に掲載されます。
図1. 相分離構造による高弾性率化と伸長誘起結晶化による強靭化を同時に達成したゲル電解質の模式図と写真
ゲル電解質は、長いひも状の高分子鎖を連結して作られる網目にイオン伝導性の液体を閉じ込めた材料です。高分子由来の柔らかさと安全性から、肌や服に貼り付け可能な次世代の「曲げられる」フレキシブル電池の電解質材料として注目されています。このような材料は、充放電に伴う金属結晶の成長が引き起こす電池の短絡を防ぐため、高い弾性率 (注4) を持つ必要があります。これまでの研究で、10 MPa以上の弾性率を持った電解質では、リチウムの金属結晶の形成を抑制する効果があることが報告されています。また、繰り返しの曲げによる亀裂の進展を防ぐ必要があり、高い破壊エネルギー (注5) を示す材料である必要があります。従来材料では、硬さを担保するのに高分子の結晶化を利用していました。しかし、硬いゲル電解質は脆 (もろ) くなりやすく、硬さと丈夫さの両立は難しいと考えられてきました。2010年頃からさまざまな高強度なゲル電解質が開発されてきましたが、高い弾性率と破壊エネルギーを両立したゲル電解質は少なく、特に金属結晶の成長を防ぐことが可能な10 MPa以上の弾性率を有するゲル電解質において、破壊エネルギーが高いものは開発されていませんでした。フレキシブルデバイスの外装として用いられるポリジメチルシロキサン (PDMS) ゴムの破壊エネルギーは1 MJ/m3程であり、変形による破壊を防ぐには、それよりも十分大きな破壊エネルギー (10 MJ/m3) を示すことが望ましいと言えます。
本研究では、相分離現象と伸長誘起結晶化 (注6) を組み合わせることで、10 MPaを超える高い弾性率と100 MJ/m3程度の高い強靭性を両立したゲル電解質の開発に世界で初めて成功しました。
曲げなどの変形で高分子が引き伸ばされると、内部の高分子鎖が伸び切り、互いに集まることで結晶化し (伸長誘起結晶化) 、材料の力学強度が向上することがわかっています (2021年発表プレスリリース[1]) 。本研究では、この原理をゲル電解質に適用し、伸長誘起結晶化を起こす環動ゲル電解質の開発に成功しました。伸長誘起結晶化には、電解質内部の高分子鎖を均一に変形させることが重要になりますが、そのために高分子鎖を環状分子によって連結した環動網目 (注7) を用いました。環動網目構造を適切に制御することで、電解質中においても高分子鎖の変形を均一化できることを見出し、伸長誘起結晶化による強靭化 (破壊エネルギー:約100 MJ/m3)を実現しました (図1) 。実際に、本研究によって開発したゲル電解質は曲げても元の形状に戻る柔軟性を有しつつ、亀裂に対して高い抵抗性を示します (図2) 。また、電解質中において環動網目の環状分子が凝集して硬い連続相を形成することがわかり、その結果、高い弾性率 (70 MPa) を達成しました。
図2. 本研究で開発したゲル電解質の高い柔軟性と亀裂進展抵抗性
(a) 本研究で開発した硬くて丈夫なゲル電解質は曲げても元の形状に戻る柔軟性を有する。 (b) ゲル電解質のシートに切れ込みを入れて伸長しても、亀裂は進展せず、伸長誘起結晶化による高い亀裂進展抵抗性が確認された。
世界最高水準の強靭性と高い弾性率を両立した自己補強ゲル電解質は、高い安全性と耐久性が必要とされるフレキシブル電池の電解質としての応用が期待されます。本研究ではリチウム塩を利用したため、イオン伝導率は10-5~10-6 S/cmという値を示しました。これは同じ溶媒を用いた他の電解質の報告と同等の値です。しかしリチウム塩だけに限らず、溶媒として振舞っている塩の種類を変更しても自己補強効果は有効であると考えられます。イオン液体 (注8) などのよりイオン伝導性の高い溶媒を利用することで、センサーやキャパシタなど、他のフレキシブル電気化学デバイスに適した電解質の開発にもつながる可能性があります。
[1]プレスリリース:「引っ張ると頑丈になる自己補強ゲル ~繰り返し負荷に耐えられる人工靭帯などへの応用に期待~」 (2021/6/4)
https://www.issp.u-tokyo.ac.jp/maincontents/news2.html?pid=13376
雑誌名 | Science Advances |
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題 名 | Strain-Induced Crystallization and Phase-Separation Used for Fabricating a Tough and Stiff Slide-Ring Solid Polymer Electrolyte |
著者名 | Kei Hashimoto*, Toru Shiwaku, Hiroyuki Aoki, Hideaki Yokoyama, Koichi Mayumi*, Kohzo Ito* | DOI | 10.1126/sciadv.adi8505 |
本研究は、科学技術振興機構 (JST) 「戦略的創造研究推進事業 CREST (No. JPMJCR1992) 」、「創発的研究支援事業 FOREST (No. JPMJFR2120) 」、「未来社会創造事業 (No. JPMJMI18A2) 」、科研費「若手研究 (課題番号:21K14679) 」の支援により実施されました。
(注1) ゲル電解質
ひも状の高分子鎖同士を連結したネットワーク構造にイオン伝導性の液体を閉じ込めたものをゲル電解質と呼びます。ゲル電解質は、電池の電極間に挟み込む電解質膜として用いられており、電極同士が直接触れて短絡することを防いで、充電・放電の際にイオンを輸送する役割を担います。本材料はその中でも高分子固体電解質と呼ばれるものに分類され、溶媒としてリチウム塩などの常温で固体の金属塩を用いています。高分子の鎖と相互作用することでリチウムイオンなどのプラスのイオンが引き付けられて電離し、あたかも液体であるかのように振舞うようになり、イオンの伝導が起こるようになります。
(注2) 金属結晶の成長
電池の充電・放電を繰り返す際に、電池の中で金属がそのまま析出し、樹状・針状の鋭い結晶を作ることがあります。これが電解質を突き破ると短絡 (正極と負極が直接触れること) が起こり、発火や爆発の危険性があります。特にリチウム金属を負極に用いた場合に顕著に起こりますが、電極に挟まれた電解質膜の硬さによって金属結晶の成長を抑制できることが知られています。10 MPa以上の弾性率を持った電解質膜で、リチウム樹状・針状結晶の形成を抑制する効果があることが報告されています。
(注3) ミクロ相分離構造
相溶性の差によって二つの成分が分離することを相分離と呼びます。これがナノスケールの小さな領域で起こる場合、ミクロ相分離と呼称します。本研究では、溶媒であるリチウム塩に対して、環状の架橋点であるシクロデキストリンの相溶性が低く、ゲル電解質中でシクロデキストリンが硬い連続相を形成していることが分かりました。このミクロ相分離構造が、本材料の硬さの向上につながっています。
(注4) 弾性率
材料を変形させた際の、変形初期における応力の立ち上がりの傾きから定義される値です (単位はPa) 。材料の変形しにくさ、硬さを表す指標です。
(注5) 破壊エネルギー
ここでは、材料を伸長して破断するまでに必要な単位体積当たりのエネルギーとして破壊エネルギーを定義しています (単位はJ/m3) 。材料の強靭性を表す指標です。
(注6) 伸長誘起結晶化
伸長誘起結晶化は、1925年にKatzが天然ゴムにおいて発見した現象です。天然ゴムは、主成分であるポリイソプレンが互いに架橋されたネットワーク構造を有しています。天然ゴムを伸長すると、伸長方向に引き延ばされた高分子鎖が互いに寄り集まって結晶を形成します。この現象を伸長誘起結晶化と呼びます。伸長誘起結晶化によって天然ゴムは極めて優れた強靭性を示すことが知られており、いまだに力学強度において天然ゴムをしのぐ合成ゴムは開発されていません。当研究グループは水を高分子の網目に閉じ込めた高分子ゲルでもこの伸長誘起結晶化が起こることを世界に先駆けて報告しています。
(注7) 環動網目
高分子鎖を環状分子で連結した網目を環動網目、環動網目に溶媒を閉じ込めた高分子ゲルを環動ゲルと呼びます。環動ゲルを変形させると、環状分子からなる架橋点がナノスケールの滑車のように振舞うことで、高分子鎖にかかる張力が均一に分散されます。その結果、環動ゲルは変形による応力集中を回避することができ、通常の高分子ゲルに比べて優れた強靭性を示すことが知られています。その際、環動ゲルの構造を適切に調整することで、引き伸ばされた高分子鎖が寄り集まって伸張誘起結晶化を起こすことがわかっています。
(注8) イオン液体
塩のうち融点が低く室温で液体になるものを呼びます。不揮発性で安全性が高いという特性と高いイオン伝導性を持った溶媒です。